イラク戦争(読み)いらくせんそう(英語表記)Iraq War

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラク戦争」の意味・わかりやすい解説

イラク戦争
いらくせんそう
Iraq War

アメリカ、イギリス両国がイラクの武装解除とサダム・フセイン政権打倒を目的として、イラクに武力行使をした戦争。イギリスを除くほとんどのヨーロッパ諸国、中東諸国、ロシア、中国など多くの国が戦争反対の立場をとり、反戦デモが広がるなか、そうした国際世論を押し切る形で行われた。戦争は2003年3月20日、アメリカ軍巡航ミサイルでイラク指導部を狙った、首都バグダードへの奇襲爆撃で始まった。翌21日には、アメリカ、イギリス両軍は南部クウェートから地上部隊による砲撃をもって侵攻を開始し、バスラカルバラーナジャフなど拠点都市をつぎつぎと攻略した。北部クルド人自治区にもアメリカ兵が降下、キルクークなどを占拠した。そして、開戦から21日目の4月9日には首都を制圧、1979年7月からおよそ24年間も続いたフセイン体制は崩壊し、戦争はいちおうの終結をみた。また、同年12月13日にはフセインがアメリカ軍に拘束された。フセイン政権崩壊後、イラク全土は、アメリカ・イギリスによる連合国暫定当局(CPA)の占領統治に入る。04年6月1日にイラク暫定政権がたち上がり、同28日には、CPAからイラク暫定政権への主権移譲がなされ、占領統治は終了するが、アメリカ・イギリスを中心とする多国籍軍は駐留し続けている。2005年1月、国民議会選挙が行われ、シーア派勢力が勝利し議席の過半数を占め、同年4月に国民議会は、イラク移行政府の大統領としてクルド人指導者のジャラル・タラバニを選出、タラバニは大統領に就任した。一方、2004年7月、フセインと旧政権幹部を裁く特別法廷が開廷し司法手続きが開始され、2005年10月にはフセインの初公判が開かれた。本人は罪状認否で無罪を主張したが、2006年11月イラク高等法廷(特別法廷から改称)は人道に対する罪でフセインに死刑(絞首刑)判決を下した。同年12月26日には死刑が確定、同30日に刑が執行された。

 この戦争は、12年前の湾岸戦争の流れをひくもので、アメリカのG・W・ブッシュ政権は、当時大統領であった父G・H・W・ブッシュが主導した湾岸戦争終結後も、アメリカとの対決姿勢を保ちつつ存続しているフセイン政権への不快感をあらわにしていた。ブッシュ政権は、イラクを、国連決議を無視して開発、保有するという、核兵器はじめ化学・細菌兵器などの大量破壊兵器(WMD)により、国際テロを支援する国家(悪の枢軸、ならずもの国家)の一つと位置づけ、その武力廃絶を、自由や人権、民主主義を擁護するとの名目のもと、対テロ国際統一戦争という形で遂行しようとした。

 こうしたアメリカ政府の「大義」には、フランス、ドイツ、ロシア、中国をはじめ多数の国々が反対を唱え、WMDの疑惑解明のための国連による査察の継続を要求した。ただ、イギリスのブレア政権や日本の小泉純一郎内閣などは、事態を十分に検討することなく、積極支持を表明して少数ながらアメリカに追従する姿勢をみせた。

 イラク戦争の勝利を「歴史的な瞬間」(ブッシュ)と称えた戦後も、イラクの治安は悪化し、各地で散発的な戦闘が続発、アメリカ・イギリス占領軍の兵士にも死傷者が急増した。その背景には、戦争中のクラスター爆弾、劣化ウラン弾など「非人道的兵器」の使用や、誤射・誤爆に対する住民の怨念(おんねん)、不信や憎悪の根深さがある。また戦争目的にも掲げたWMDの存在は立証されないばかりか、民主的な政権の樹立には、残存する部族主義のほかに、イスラム教宗派(スンニー派とシーア派の割合は3対6、ちなみにフセインはスンニー派。ほかにキリスト教各派も)の違い、全人口のおよそ20%を占めるクルド人など少数民族の存在、といった不安定要因が立ちはだかっている。

 この戦争で示された「ブッシュ・ドクトリン」ともよばれるアメリカの大国意識や覇権主義、武力に頼っての単独行動主義、平和と戦争、自由や民主主義について自国本位の価値観を他国に押しつけるようなやり方に対する非難は少なくない。ことの是非は、やがて歴史による審判を受けることになるものと思われる。

[奥野保男]

『野嶋剛著『イラク戦争従軍記』(2003・朝日新聞社)』『E・W・サイード著、中野真紀子訳『裏切られた民主主義』(2003・みすず書房)』『ボブ・ウッドワード著、伏見威蕃訳『ブッシュの戦争』(2003・日本経済新聞社)』『寺島実郎、小杉泰、藤原帰一編『イラク戦争――検証と展望』(2003・岩波書店)』『酒井啓子著『フセイン・イラク政権の支配構造』(2003・岩波書店)』『酒井啓子著『イラクとアメリカ』(岩波新書)』『フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編・監訳『アメリカはなぜイラク攻撃をそんなに急ぐのか?』(朝日文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イラク戦争」の意味・わかりやすい解説

イラク戦争
イラクせんそう
Iraq War

2003年3月20日,アメリカ軍によるイラクの首都バグダードへの空爆で始まった戦争。42日間の戦闘で,戦争中の有志連合軍の死者は 172人,イラク人死者数についての正確な統計はないが,10万人をこえると推計される。1991年の湾岸戦争以降,アメリカ合衆国は経済制裁と外交的圧力によってイラクのフセイン政権を国際的に封じ込めてきたが,2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件以降,イラクの大量破壊兵器 WMD保有の可能性を危険視して,フセイン政権転覆を目的とした軍事行動への動きを強めた。2002年1月,アメリカのジョージ・W.ブッシュ大統領はイラクを「悪の枢軸」と名指しし,WMDに関する国際連合の査察活動に非協力的と非難した。同 2002年末に再開された国連による査察は明確な結果を出せないままに終わり,イラクの WMD保有を主張して軍事行動を訴えるアメリカおよびイギリスと,それに反対するドイツ,フランス,ロシアとが国連安全保障理事会内部で対立した。2003年3月20日,米英軍は国連での合意がないまま対イラク攻撃を開始。4月9日にアメリカ軍がバグダードを陥落させ,フセイン政権は事実上崩壊した。サダム・フセインは同 2003年12月にアメリカ軍に逮捕され,2006年末にイラク特別法廷により死刑宣告を受けて処刑された。
アメリカのブッシュ大統領による 2003年5月1日の戦闘終結宣言後,連合軍暫定当局 CPAによる占領が 2004年6月のイラク暫定政府成立まで続いたが,その後もアメリカ軍は多国籍軍としてイラクに駐留を続けた。アメリカは旧国軍やバース党を旧体制を支えたという理由で解体したが,大量の失業者を生んだ。一方で,2005年1月に制憲議会選挙,10月に憲法制定の国民投票が行なわれ,12月,民選によるイラク政権が成立した。しかし外国軍の駐留や宗派偏向的な政権の成立は住民の反発をあおり,宗教的過激派の台頭もあって反米・反政府勢力による攻撃が増加した。特に 2006~07年には宗派対立を軸に治安が悪化し,駐留軍,イラク民間人ともに死者が急増したため,戦後の内戦状況もイラク戦争の延長とする見方もある。こうした戦後のイラクの不安定化と駐留アメリカ軍の被害の大きさや,WMDが発見されなかったことなどから,アメリカ国内ではイラク戦争への疑義が高まり,戦争反対を主張した民主党のバラク・オバマが大統領に選出されるにいたった。
2009年2月,アメリカのオバマ大統領はアメリカ軍の戦闘部隊を 2010年8月末までに,そして残りの駐留軍も 2011年12月までにはイラクから撤退させると宣言した。2010年8月18日,計画を約 2週間前倒ししてアメリカ軍戦闘部隊はイラクからの撤退を完了。残りの兵士約 5万人は,イラク軍や警察の訓練および支援のためにイラクに駐留した。開戦以来のアメリカ兵の死者は 2010年4月までで 4000人に上った。一方 2009年10月,イラク政府は 2004~08年(それ以前の統計はない)の犠牲者数を,一般市民と兵士をあわせて少なくとも 8万5000人に上ると見積もった。2011年10月,オバマ大統領は 3万9000人の駐留アメリカ兵を 2011年末までにイラクから引き揚げると発表した。12月14日,オバマはイラク戦争の終結を宣言し,翌 15日にはバグダードで駐留アメリカ軍の完全撤退記念式典が催された。最後の部隊約 500人は 12月18日に陸路クウェート入りし,アメリカ軍の撤収は完了した。

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