インドシナ(その他表記)Indochina

翻訳|Indochina

改訂新版 世界大百科事典 「インドシナ」の意味・わかりやすい解説

インドシナ
Indochina

アジア大陸の東南部に突出した大半島で,東を南シナ海に,西をベンガル湾によって囲まれた地域。ミャンマー,タイ,ラオス,カンボジアベトナム,西マレーシアを含む。インドとシナ(中国)の中間に位置し,両大陸の文明の影響を受けたことからこの名がある。造語はイギリスの医者で詩人のジョン・レイデンJohn Leyden(1775-1811)と言われるが,事実とすれば,彼のペナン滞在中の作品《インドシナ諸民族Indo-Chinese Nationsの言語と文学に関する論考》(1805)がこの語の初出であろう。狭義ではかつてフランスの支配下におかれたベトナム,カンボジア,ラオスの3国のみを指すが,これは〈フランス領インドシナ連邦〉(1887-1945)の略である。ちなみにフランス人は独立前のビルマ(現,ミャンマー)を〈イギリス領インドシナ〉と呼んでいた。

 インドシナには一つを除きいずれもチベット東部に源を発する5本の大河--ソンコイ(ホンハ,紅河),メコン,メナム(チャオプラヤー),サルウィン,イラワジ--が流れ,それぞれの流域平野を中心に多彩な文明を発達させている。しかしこれら大河の間には山脈が縦走して相互の交通をさまたげているため,歴史上全インドシナを覆う統一的政治権力は発生していない。言語的・民族的多様性と政治的分裂はインドシナを歴史的に特徴づけている。

インドシナにおける国家形成は中国とインドの影響を受けて進行した。インドシナ半島の東部を南北に走るアンナン(チュオンソン)山脈は,二つの大文明の影響圏を東西に分かつ分水嶺の役割を果たしている。インドシナ〈中国化〉の重要な契機は経済的理由であった。前漢の武帝による南越国征服(前111)は,中国によるベトナム植民地支配の始まりであったが,武帝が北部ベトナムに交趾,九真,日南の3郡を置いてこの地に郡県制を及ぼした背景には,真珠,タイマイ,象牙など,ここにもたらされる南海の珍貨獲得に対する中国人の強い欲求の存在を見ることができる。ベトナムが10世紀に完全独立を達成するまでの1000年間,中国の植民勢力は中国の伝統的統治思想に基づく原住民教化に努力し,社会生活の広範な領域にわたって中国文化の受容を強制した。中国語がベトナムにおける唯一の公用語・文化用語として採用されたことは,その後のベトナム文化発展の枠組みを決定し,ベトナムを〈インド化された〉他のインドシナ諸国から明確に区別する原因となった。独立後のベトナムはそれぞれの時代に応じ,中国に範を求めて国造りを進めてゆく。中国式官制・律令格式の採用,科挙制度の導入,中国の正史に範をとった史書の編纂,〈三教〉すなわち儒・仏・道という三大中国宗教の受容--これらは相ともにベトナムを中国的世界の一国として位置づけた。

インドシナの〈インド化〉の過程は,史料的制約により〈中国化〉の場合ほど明瞭ではない。中国史料に見える扶南建国説話のように,インド人支配階級による軍事的征服を想像させる事例もあるがこれはむしろ例外で,多くはインド人の交易活動に付随して原地人支配者層によるインド文化の受容が行われ,しだいにインド的原理を基盤とした国家が成立していったものと考えられる。インドシナの〈インド化〉において〈中国化〉における漢文の役割を果たしたのはサンスクリット(語)であった。漢文が中国語の諸方言を結ぶ共通の文化語であったように,サンスクリットはインドのすべての地方に通用する知識層の共通語であった。インドシナの〈インド化〉に南インドのコロマンデル海岸地方出身者の果たした役割のきわめて大きいことはよく知られているが,インドシナにはたとえば彫刻などの美術作品の上にガンガー(ガンジス)川流域や北西インドの影響も認められており,サンスクリット史料からだけではその起源を知ることは難しい。〈インド化〉の徴表にはサンスクリット刻文の存在そのもののほか,王名がインド風であるという事実がある。たとえば2世紀ごろから7世紀中ごろまでメコン川下流域に存在した扶南国の刻文にはジャヤバルマン,グナバルマンなど南インドのパッラバ朝を思わせる王名が見えている。ただ時代が下るにつれ,サンスクリットとならんでクメール語真臘アンコール),チャム語(チャンパ),モン語(ドバーラバティ)など土着の言語で記された刻文が登場するのは,インド文化の担い手が原地人エリートの手に移ったことを示す明確な証拠として注目される。

 これらの〈インド化された〉王国中最強最大のものは9世紀から13世紀にかけて繁栄したクメール人の国アンコール帝国であろう。カンボジアのトンレサップ湖北岸に都を置いたこの国の強盛は,アンコール・ワットに代表される巨大な石造遺跡群や,バライと呼ばれる広大な人工湖の存在からこれをうかがうことができる。ベトナム中部から南部にかけては2世紀以降チャム族の建てたチャンパ(林邑,環王国,占城)があり,建築物の遺構や刻文の内容から〈インド化〉の状態をうかがうことができる。チャンパはソンコイ(ホンハ)川流域から南に向かって膨張するベトナムの勢力に圧迫され,15世紀に滅亡してしまった。半島中部には7世紀ごろからモン族の国家ドバーラバティが存在し,中国にも朝貢していたことが知られているが,史料が少ないため,その全容については今後の考古学的研究の進展をまたなければならない。現在のミャンマー中部には漢文史料に〈驃〉として現れるピューがあった。骨壺に残された銘文からこの国の王もまたインド的な名で呼ばれていたことを知る。インドとともに南詔とも交渉をもち,首都の人口は数万戸を数えたと言われるが,9世紀以後衰退した。

これらの〈インド化された〉諸国に栄えたサンスクリット文化は,13世紀に至り,インドシナの各地で発生した支配民族の交代を機として衰退の危機を迎える。変化のきざしは,半島西部においてはすでに11世紀中葉において現れていた。ここではサンスクリットを用いたヒンドゥー教や仏教に代わって,スリランカから上座部仏教すなわちパーリ語聖典を信奉する小乗仏教の一部派が到来し,パガンを中心とするビルマ人の王国において国教の地位を占めるに至った。13世紀に入るとインドシナの上座部仏教化の波は東漸してスコータイにタイ人の仏教王国が建設される。かつてヒンドゥー教,大乗仏教文化の華を咲かせたカンボジアのアンコールにおいてさえ,14世紀にはパーリ語の刻文がつくられるようになった。ラオスにタイ系のラオ人仏教徒の王国が成立するのもこのころのことである。かくしてインドシナは,ビルマに始まりアンナン山脈を東限とするスリランカ系パーリ仏教文化圏と,ベトナムによって代表される中国文化圏という二つの文化圏に色分けされることになった。この基本的図式は今日に至るまで不変である。

現在のインドシナを特徴づけるもう一つの要素は,19世紀前半に始まる西欧資本主義列強の介入によってもたらされた。18世紀以来インド経営を進めていたイギリスは,まずペナン島,ついでシンガポールを根拠地としてマレー半島の植民地化を進めるとともに,3度に及ぶ戦争を行ってビルマ全土をインド帝国の一部に包摂してしまった。一方,中国への通商路を求めたフランスは,19世紀中葉以降ベトナムの植民地化に着手し,コーチシナより始めて次第にその支配域を拡大し,同世紀末までに今日のベトナム,カンボジア,ラオスの全域をもって〈フランス領インドシナ連邦〉を発足させる準備を完了させた。かくしてインドシナには,間に独立の王国タイをはさんで,西方のビルマはイギリスの支配下に入り,東方のベトナム,カンボジア,ラオスはフランスの植民地支配を受けるという三分割の政治状況下に置かれたまま太平洋戦争を迎えたのである。こうした歴史的事情は,独立後の各国の動きのなかにも影響を残しているといえよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「インドシナ」の意味・わかりやすい解説

インドシナ
いんどしな
Indo-China

インドシナの語は、19世紀初めに博物学者J・ライデンが大陸部東南アジア諸国の総称として用いたのが初めという。しかし19世紀末より、ベトナム、ラオス、カンボジアがフランスの植民地となり、フランス領インドシナ連邦が成立して以来、インドシナは狭義にもっぱらこの3国をさして使われている。

[桜井由躬雄]

民族

狭義のインドシナの民族分布は複雑である。生業的には山地焼畑耕作民と平地水田耕作民に分かれるが、多くの語族は両者にまたがっている。モン・クメール語族にはカンボジア平地のクメール人と、ベトナム国境地帯のバフナル・カトゥ人などの山地民がおり、またベトナム平地部のベト人(キン人)とベトナム北部山地のムオン人もモン・クメール語族に含まれると考えられている。マライ・ポリネシア語族としては、中部ベトナムとカンボジアの一部に住むチャム人と、その周辺山地のジャライ、ラデ、チュル人などがある。タイ・カダイ語族ではラオス平地部のラオ人や、ベトナム、ラオス北部山岳地帯の黒タイ、赤タイ、ヌン人がいる。このほか、18世紀以降に中国南部から移住したと考えられるザオ(ヤオ)、フモン(ミャオ)人が北部山地に散居するが、言語的な帰属は不明である。

[桜井由躬雄]

歴史

インドシナでもっとも早期に歴史時代に突入したのは紅河(ソン・コイ川)デルタ中流域で、紀元前2世紀には雒(らく)王、雒将とよばれる支配階層や安陽王国という国家があったことが中国史料にあり、考古学上のドンソン文化がこれにあたるとされる。この地は前2世紀末には漢の領域に入り、以後10世紀の独立まで、中国南海交易の玄関になった。2世紀にはモンスーンの利用による東西海上交易の活発化に伴い、中部ベトナム沿岸にチャム人の林邑(りんゆう)国、南部ベトナムにおそらくクメール人の国と思われる扶南(ふなん)国が生まれ、風待ち港として、また内陸森林生産物の集散港として栄え、インド商人によって急速なインド文明の流入がおこった。6世紀にはインドシナの主交通路であるメコン川の中流域にクメール人の真臘(しんろう)が興り、扶南を継いでカンボジアから南部ベトナム一帯の都市連合国家を建設した。9世紀にはジャヤバルマン2世が出て、巨大な石造建築群で知られるアンコール時代をつくった。10世紀に入ると唐帝国の衰亡による隋(ずい)・唐的世界秩序の崩壊に連動して、紅河デルタにベトナムが独立し、11世紀ごろから李(り)朝、13世紀には陳(ちん)朝による長期安定政権が生まれた。中部ベトナムの占城(せんじょう)を加えたこれら3国の安定と隆盛が、宋(そう)代中国の商業的、農業的発展に対応していることはいうまでもない。元(げん)朝もこの利に着目して、13世紀には数次にわたってインドシナに遠征したが、すでに確立した独立国家の抵抗の前に敗れた。15世紀には明(みん)朝の侵攻を撃退したベトナムの黎(れい)朝は、急速に中国風律令国家を建設し、中部ベトナムの占城を盛んに侵略した。一方、13世紀以来の中国の雲南経略に刺激された山間タイ人の間に、国家建設の動きが高まり、14世紀中葉にはラオス平地部にランサン王国が生まれた。同時期にチャオプラヤー川中流域に興ったタイ人のアユタヤ朝はアンコールを壊滅させた。ラオス、東北タイを失ったアンコール王国は、以後メコン中流域のプノンペン地方の小地方勢力に転落する。17世紀以降のベトナムは、北部の鄭(てい)(チン)氏と中部の占城故地の阮(げん)(グエン)氏に分裂し、以後、阮氏は南部への進出を速め、18世紀にはサイゴン地方を占拠する。ラオスもまた18世紀にはルアンプラバンビエンチャン、チャンパサックの3王国が成立し、ほぼ現在の領域の骨格が確定する。18世紀末、ベトナム中部の西山(タイソン)党の乱はたちまち全土を統一し、次代阮朝に至って、ベトナムの領域が確定した。

 19世紀中葉、産業革命を経たフランスは、インドシナの植民地化を目ざして、まず南部ベトナムをとり、ついでカンボジアを保護国化した。さらにソン・コイ川ルートをめぐる紛争から北・中部ベトナムを保護国として、1887年フランス領インドシナ連邦を組織し、ついで99年ラオスを保護国とした。20世紀前半、インドシナには南部の米を中心に帝国主義的搾取が行われたが、これに抗して1930年代から民族主義運動がおこった。40~45年日本軍が占領するが、45年、日本降伏を機に3国にはいっせいに独立政府が生まれ、フランスの再侵略に激しく抵抗した(第一次インドシナ戦争)。54年、ジュネーブ協定により、ベトナム北部にはベトナム労働党に主導されたベトナム民主共和国、南部にはベトナム共和国、ラオス王国、カンボジア王国の成立が認められた。しかし、各国の経済的、政治的分裂は、60年南ベトナム解放民族戦線の成立を機に、ふたたび戦乱に入った(第二次インドシナ戦争)。61年、アメリカ軍の直接介入により戦争は長期・広域化したが、75年、南ベトナム解放民族戦線、ラオス愛国戦線(パテト・ラオ)、カンプチア統一戦線などの社会主義勢力が勝利を収め、76年にかけて民主カンボジア、ラオス人民民主共和国、ベトナム社会主義共和国が次々と誕生した。

 しかし、民族間相互の不信と中ソ対決の影響は、1978年以来、ベトナム・カンボジア、ベトナム・中国間に紛争を生じさせ、とくに79年以来のカンボジア内乱は多数のインドシナ難民を生み出した。しかし、東西の緊張緩和、ソ連圏の崩壊とともにインドシナの緊張は和らぎ、まず86年末、ベトナムが経済開放政策(ドイモイ)に移行し、80年代末、カンボジアから完全撤退し、89年にはインフレも治り、外資が流入して著しい経済発展が起った。ラオスも同時期に新思考政策(開放政策)に転換し、91年に新憲法を公布し、国際援助が導入された。とくに94年にはメコン川にラオス・タイ友好橋が架設され、タイとの経済関係が濃密になった。97年にはアセアン(ASEAN)に参加している。長く内乱状況にあったカンボジアでも、80年代末から国際的な調停が進み、91年に和平協定が結ばれ、国連の管理下に復位したシアヌーク国王の下にポルポト派を除く統一政府が成立した。インドシナはようやく安定と発展の道を進みつつある。

[桜井由躬雄]

『石井米雄著『世界の歴史14 インドシナ文明の世界』(1977・講談社)』『桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史Ⅲ』(1977・山川出版社)』

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百科事典マイペディア 「インドシナ」の意味・わかりやすい解説

インドシナ

アジア大陸南東部に突出する半島部の呼称。インドと中国の文化的影響が濃いため,この名称がある。ラオス,カンボジア,ベトナムを包含する地域であるが,広義にはミャンマー,タイを加える。ヒマラヤ山系東端から分かれた山脈が南方に扇状に分岐し,東部にアンナン山脈,西部にペグー山脈,アラカン山脈などがある。ソンコイ川,メコン川,チャオプラヤー(メナム)川,タンルウィン(サルウィン)川,エーヤワディー(イラワジ)川などが半島を縦断,それぞれ下流で広大なデルタを形成している。低地の大部分は熱帯・亜熱帯性気候でモンスーンの影響が大きく,世界有数の米作水田地帯となっている。古来,アラカン山脈以西はアンコール朝に代表されるようにインド文明と上座部仏教の影響が強く,以東のベトナムは大乗仏教,儒教,道教を受容して中国文明の影響が強い。民族構成は複雑で,山岳地帯には数十の少数民族が居住する。最大民族はベトナム人で,ほかにクメール人,ラオ人,シャム人などが大集団である。16世紀からヨーロッパ人が進出,ビルマ(現ミャンマー)はイギリス領インド帝国に編入され,ベトナム,カンボジア,ラオスは19世紀末フランス領インドシナとされた。第2次大戦後,植民地支配の復活をめざすフランスとのインドシナ戦争(1946年―1954年)をはじめとして,ベトナム戦争(1960年―1975年),ベトナム・カンボジア戦争(1978年),中越戦争(1979年),カンボジア内戦(同年)など政乱が続き,多くの住民が難民となった。
→関連項目東南アジア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インドシナ」の解説

インドシナ
Indochina

ベトナムからミャンマーにまたがる東南アジア大陸部の半島。インドとシナ(中国)の間にあることからヨーロッパ人が命名した。狭義には東部の旧フランス領3国(ベトナム,ラオス,カンボジア)をさす。大部分が熱帯気候で,モンスーンの影響を受け明瞭な雨季と乾季がある。雲南から流下する大河が並び,山地,平原,デルタなど多様な生態と複雑な民族分布を持つ。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「インドシナ」の解説

インドシナ
Indochina

アジア大陸の南東部にある半島。名称はインドと中国の中間地域にあることに由来
広義のインドシナは東部のヴェトナム・カンボジア・ラオス,中部のタイ,西部のミャンマー(ビルマ)と半島部のマレーをいい,狭義には旧フランス領インドシナをさす。複雑な民族を含み,古くから中国とインドの文化の影響を受けたが,民族独自の文化も発展させた。

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デジタル大辞泉プラス 「インドシナ」の解説

インドシナ

1992年製作のフランス映画。原題《Indochine》。監督:レジス・バルニエ、出演:カトリーヌ・ドヌーブ、バンサン・ペレーズ、リン・ダン・ファンほか。第65回米国アカデミー賞外国語映画賞受賞。

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