日本大百科全書(ニッポニカ) 「革命戦争」の意味・わかりやすい解説
革命戦争
かくめいせんそう
フランス革命をめぐって起こったフランスとヨーロッパ諸国との戦争。フランス革命戦争ともいう。1792年ころから99年まで続き、ナポレオン戦争に引き継がれた。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力や、これに依存する王権、亡命貴族を倒し、また自由や平等を国外に宣布、伝播(でんぱ)するため、すなわち「自由の十字軍」であろうとしたため、好戦的であった。一方、これに対し、フランスの反革命勢力は、外国の力によって革命を押さえ、その権勢を回復しようとして、やはり主戦的であった。少数の反戦派もあったが、フランスは92年4月オーストリアに宣戦布告し、やがてプロイセンも戦争に加わった。革命側は短期勝利を期していたが、軍の将校(貴族)の半数が亡命中といったありさまで、指揮は乱れ、装備は不十分のため、フランス軍は敗退、7月、国会は「祖国の危機」を宣言、この危機感から八月十日事件や九月虐殺が起こった。しかし9月、新しい人民の軍はナショナリズムの高揚のうちに、バルミーの戦いでプロイセン軍を反撃、以来、フランス軍は優勢に転じ、北イタリア、西ドイツ、ネーデルラント方面に進出した。しかしこの間、戦争は革命の防衛から伝播、さらにフランス側の侵略、征服に発展し、他国との対立を招いた。
1793年1月ルイ16世処刑による革命激化をおりに、2月以降、フランスはイギリス、オランダ、スペイン、イタリアおよびドイツ諸国との戦いに入り、第一次対仏大同盟も形成された。とくにイギリスの参戦によって、戦争は革命以前からの英仏抗争に連なるに至った。戦局がふたたび不利となったフランスは、近代史上初の国民総動員体制をもって抗戦、恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられ、一方、軍制改革も促進された。93年末から戦局はまた逆転、94年フランス軍は国外に進出、この有利な情勢のもとに95年、プロイセン(バーゼル条約)、スペインなどと講和が成立、さらに97年、ナポレオン・ボナパルトの活躍によってオーストリアとも和し(カンポ・フォルミオ条約)、対仏大同盟は崩れ、この間、各地にフランスの衛星国がつくられた。
しかし1798年、対イギリス作戦であるナポレオンのエジプト遠征は目的を果たせず、かえってロシア、トルコの参戦を誘い、オーストリアも戦列に復帰して、第二次対仏大同盟が成立した。99年、またもフランス劣勢のうちに、この年11月、クーデターによってナポレオンが政権を握り、戦争は決着がつかないままに新局面を迎えることとなった。
[山上正太郎]