エジプト遠征(読み)エジプトえんせい

精選版 日本国語大辞典 「エジプト遠征」の意味・読み・例文・類語

エジプト‐えんせい‥ヱンセイ【エジプト遠征】

  1. 一七九八~九九年、ナポレオンがフランス革命政府の命令で行なった遠征アレクサンドリアに上陸、カイロに入城したが、海軍アブキール戦いイギリスネルソンに敗れたため失敗に終わる。

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百科事典マイペディア 「エジプト遠征」の意味・わかりやすい解説

エジプト遠征【エジプトえんせい】

フランス革命中の1798年,東地中海インドにおける英国の勢力に対抗し,ナポレオン総司令官として行った遠征。マルタ占領後アレクサンドリアに上陸,カイロに至ったが,アブキールの戦で英国のネルソンに敗れた。1799年シリアにおもむくがこれも失敗。その後ナポレオンは本国の情勢悪化を知り帰国,ブリュメール18日クーデタによって総裁政府を倒し自ら第一執政となった。この遠征の際ロゼッタ・ストーンが発見された。
→関連項目アズハル大学アブキール湾の戦エジプト(地域)エジプト学カイロナポレオン戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジプト遠征」の意味・わかりやすい解説

エジプト遠征
えじぷとえんせい

1798年5月19日、南フランスを出帆したナポレオンの軍事行動をさす。遠征の動機は、ナポレオン個人の東方に対する夢と野望もあったが、エジプトを制することにより、インドに特殊利害をもつイギリスをからめ手から牽制(けんせい)する点にあった。遠征軍は33隻の艦隊、200艘(そう)余の輸送船団からなり、3万余の陸兵と167名の学者、技術家を乗せ、地中海を東に進んだ。6月10日マルタ島に上陸。同島を占領後、7月初めアレクサンドリアに陸揚げし、首都カイロに向け進軍。現地のマムルーク騎兵の激しい抵抗を受けたが、火砲の威力で打破し、7月21日ナイル河畔の都カイロに入城。ただちに軍事政権を樹立した。ナポレオンは現地人に宥和(ゆうわ)政策を約し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進した。が、入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされた。翌99年2月、ナポレオンはシリア遠征の途につく。目ざすは南下を計画するトルコの要衝を突く点にあった。ナポレオン軍は水の欠乏ペストに苦しみつつ、ハイファに進み、アルクを攻撃してならず、むなしくエジプトに帰還した。勢いに乗ったトルコ軍は、7月アブキール湾に上陸したが、フランス軍により撃滅された。99年8月末、ナポレオンは単独でエジプトを離れ、本国に帰還する。遠征軍は取り残された形で、軍事行動は成功しなかったが、同行した学者の手でやがてエジプト学や古代東方の文物の研究が進められることにはなる。なかでも一将校が発見したロゼッタ石から、エジプト文字の解読シャンポリオンによりなされ、大きな貢献を後世に残した。

[金澤 誠]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エジプト遠征」の意味・わかりやすい解説

エジプト遠征
エジプトえんせい
Campagne d'Égypte; Expedition to Egypt

フランス革命戦争中の 1798~99年イギリスのインド支配に打撃を与えるため実施されたナポレオン・ボナパルト (ナポレオン1世 ) によるエジプトへの遠征。革命フランスの総裁政府は,ナポレオンの計画したエジプト遠征を認めて,東方への進出とイギリスのインド・ルートの閉鎖をはかった。ナポレオンは遠征軍を率いて 98年7月アレクサンドリアに上陸し,ピラミッドの戦闘でマムルーク軍を破り,カイロを占領した。しかし,8月1日,アブキール湾におけるナイルの戦いで H.ネルソン提督の率いるイギリス艦隊に全滅に近い大敗を喫したため,遠征軍は本国との連絡を断たれ,99年8月,ナポレオンはエジプトを脱出してかろうじて本国に帰還した。エジプト遠征は失敗に終ったが,遠征に際してナポレオンは百数十名の学者や画家を従軍させ,エジプトの古代文化や地理に関する調査研究を行わせて,その結果を『エジプト誌』にまとめさせ,これがエジプト学の出発点となった。ロゼッタ石が発見されたのはこの遠征のときである。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エジプト遠征」の解説

エジプト遠征(ナポレオンの)(エジプトえんせい(ナポレオンの))

イギリスのアジアへの通商路を遮断するため,ナポレオン率いるフランス軍が1798年に実施した軍事遠征。近代装備のフランス軍は在地のマムルークをカイロから追放し,上エジプトやシリアへと転戦したが,自国艦隊がアブキール湾の戦いネルソン指揮下のイギリス艦隊に完敗。パリからの補給を断たれ,ナポレオン自身も99年隠密裏に帰国した。1801年には残ったフランス軍がイギリス軍に降伏。エジプトはオスマン帝国に返還された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「エジプト遠征」の解説

エジプト遠征
エジプトえんせい

1798〜99年に行われたナポレオン1世によるエジプト侵略
イギリスとインドとの連絡路を断つため,ナポレオンはエジプト遠征を総裁政府に建言,将兵・学者ら5万4000名を率い,自ら司令官として赴いた。エジプト・シリアの大部分を占領したが,海軍はアブキール湾の戦いで完敗した。その間に本国の政治情勢が危機におちいったのを知ったナポレオンは,単身帰国し,残留兵は降伏,遠征は失敗した。なお,この遠征時,フランス人がアレクサンドリア付近のロゼッタで古代文字の刻まれた石(ロゼッタ石)を発見した。

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