韮崎宿
にらさきしゆく
[現在地名]韮崎市本町一丁目など
河原部村に設けられた甲州道中の宿で、当宿で南方へ駿信往還、北方へ佐久往還が分岐した。宿場が設けられた時期は明確ではないが、慶長一六年(一六一一)と推定される亥三月九日付の大久保長安伝馬手形(名取宏家文書)には甲府から美濃・岐阜に至る道筋の宿の一として、「にらさき」とみえ、この頃にはすでに宿駅としての機能が整えられていたと考えられる。なお「甲斐国志」によると、慶長年中に甲州道中が定められた折に、河原部村と高下村(小岡村とも)の二ヵ村を合せて当宿が設定されたという。なお高下村は釜無川と塩川の合流点付近に位置したとされ、水害に悩まされた住民はのちに当村と宇津谷村(現双葉町)に移住したという(塩崎村誌)。
江戸からは三九里一〇町余にあたり、前宿甲府柳町からは三里二〇町五〇間、次宿の台ヶ原(現白州町)へは四里、また駿信往還の
沢宿(現甲西町)へは三里半、佐久往還の若神子宿(現須玉町)へは二里半の距離であった。宿内の町並はほぼ南北に通る街道に沿った両側町で、町の長さは一二町ほど。地子免許はない。本陣は問屋兼業で中町(現本町一丁目)にあり、門構え・玄関付き、建坪およそ一二〇坪。脇本陣はなく必要な場合は宿役人の手広な家を有する者が勤めた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の韮崎宿の言及
【韮崎[市]】より
…市域にもツツジの名所甘利(あまり)山(1672m)がある。【横田 忠夫】
[韮崎宿]
戦国末期,韮崎には武田勝頼の新府城があった。近世には河原部(かわらべ)村内にあり,1611年(慶長16)の文書に宿名としてみえる。…
※「韮崎宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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