江戸時代,幕府が毎年,茶道頭以下に命じて山城の宇治茶を取り寄せ将軍に献上した行事,また,その茶壺の往来をいう。宇治から茶壺を禁裏などに進献する行事は,すでに室町時代にみられるが,統一政権の成立後は豊臣秀吉や徳川家康の代にその原型ができ,3代将軍徳川家光の1632年(寛永9)より制度化した。初期には茶壺を数寄屋坊主2~3人に持たせ,徒士頭(かちがしら)1人と走衆数人を引きつれて宇治にいたり,御物茶師の上林家らに銘茶を選んで詰めさせ,密封して山城愛宕山上に100余日格納したあと,江戸城に持ちかえって将軍や大奥などの飲用に供し,日光廟・久能山にも供え,一方,禁裏・仙洞へも進献した。その後,5代将軍綱吉の代になると,茶壺の愛宕山格納を廃して,帰路は中山道・甲州道中経由,甲斐都留郡の谷村(やむら)城内の風穴に格納したが,さらに1738年(元文3)には東海道を直送,江戸城内の富士見櫓の上層に納めることになった。茶壺道中は将軍家御用であるため,上使と三卿の中間に位する威儀をもち,東海道などの諸大名や沿道住民に対する横暴もはなはだしく,種々の弊害を生じた。なお,水戸徳川家など三家でも茶壺の往来があった。
執筆者:丸山 雍成
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徳川将軍家へ山城(やましろ)国(京都府)の宇治(うじ)茶を献上する往来のこと。3代将軍家光(いえみつ)の1632年(寛永9)より始まる。茶壺は茶道頭(さどうがしら)と坊主(ぼうず)が携行し、道中の警護のため徒士頭(かちがしら)と走衆(はしりしゅう)が同行した。江戸から空の茶壺を持って東海道を宇治まで行き新茶を詰め、京都の愛宕(あたご)山へ約100日間置いたのち、中山道(なかせんどう)を江戸へ運んだ。4代将軍家綱(いえつな)以後は愛宕山へ置くのを改め、甲斐(かい)国(山梨県)谷村(やむら)城の風穴に納め江戸へ運んだ。さらに8代将軍吉宗(よしむね)の1738年(元文3)からは、宇治からそのまま江戸城内の富士見櫓(やぐら)に納めた。谷村城へ納めていたころは中山道を下諏訪(しもすわ)に出て甲州道中を下ったが、宝暦(ほうれき)期(1751~64)以降は諏訪から和田峠を下り入府した。一行は幕府の権威を着て、人馬の使役や休泊・通行などに横暴を振るうことが甚だしかった。
[渡辺和敏]
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