山梨県北西部の市。1954年韮崎町,穂坂村ほか9村が合体,市制。人口3万2477(2010)。甲府盆地北西端,釜無川と八ヶ岳方面から流れる塩川の合流点付近に位置し,東は茅ヶ岳(かやがたけ),西は鳳凰(ほうおう)山に囲まれる。旧韮崎町は江戸時代,甲州道中の宿駅,水運の拠点であったが,1903年中央本線が開通してこれに代わった。中央自動車道,国道20号・52号・141号線などが通じ,現在も北巨摩(きたこま)地方の交通・商業の中心地で,近年は機械,電気機器工業などが盛んになっている。丘陵地ではブドウ,モモなどの果樹栽培,野菜づくりが盛ん。鳳凰山,甲斐駒ヶ岳,奥秩父の金峰(きんぷ)山の登山口で,青木,御座石などの鉱泉がある。市域にもツツジの名所甘利(あまり)山(1672m)がある。
執筆者:横田 忠夫
戦国末期,韮崎には武田勝頼の新府城があった。近世には河原部(かわらべ)村内にあり,1611年(慶長16)の文書に宿名としてみえる。以来,甲州街道(甲州道中)の整備にともなって宿駅となり,富士川水運の鰍沢(かじかざわ)河岸と結ぶ駿信往還,信州佐久郡へ通ずる佐久往還の拠点ともなり,米穀類や塩の集散地としても栄えた。また1753年(宝暦3)から94年(寛政6)まで,甲斐国内にあった一橋家領を管掌する一橋陣屋が置かれた。村高は1607年977石余,66年(寛文6)1404石余,人口は1746年(延享3)1098人,1821年(文政4)1221人。宿内町並みは東西12町,中町に本陣1軒と人馬継問屋場があり,問屋,年寄,馬差が1人ずつ,1843年(天保14)には旅籠屋17軒と諸商人があった。
執筆者:飯田 文弥
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
山梨県北西部、甲府盆地の北西端にある市。釜無川(かまなしがわ)と八ヶ岳(やつがたけ)方面から流れる塩川の合流点付近にある。1954年(昭和29)韮崎町と穂坂(ほさか)、藤井、中田、穴山(あなやま)、円野(まるの)、清哲(せいてつ)、神山、旭(あさひ)、大草、竜岡村の1町10村が合併して市制施行。JR中央本線、国道20号、141号が通じ、中央自動車道の韮崎インターチェンジがある。戦国時代は武田勝頼(かつより)の居城新府城(しんぷじょう)があり、江戸時代は信州往還、佐久(さく)往還、駿信(すんしん)往還の分岐点として栄え、韮崎宿があった。また富士川水運の拠点であり、信州に送られる塩や海産物、県北や信州からの米など鰍沢(かじかざわ)に集まる物資の中継基地でもあった。1904年(明治37)中央本線が開通して宿駅、河港としての機能は衰えたが、北巨摩(きたこま)地方の交通、商業の中心地として今日に及んでいる。合併した旧村はいずれも農村であるが、塩川流域の藤井・中田地区は肥沃(ひよく)な米麦産地、台地上の穂坂・穴山地区は養蚕と果樹、釜無川南岸の円野・清哲・神山・旭・大草・竜岡地区は江戸時代開削された用水路「徳島堰(ぜき)」により開田された米作・養蚕地帯である。しかし、経営面積は比較的小さく、今日では兼業農家が大部分である。先端技術産業の工場が進出し、甲府市のベッドタウン化も進む。周辺には観光地が多く、南アルプスおよび秩父多摩甲斐(ちちぶたまかい)国立公園の玄関口になっており、南アルプスの鳳凰(ほうおう)三山、甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)への登山、金峰(きんぷ)山、増富(ますとみ)温泉へはここを経由する。市域にもレンゲツツジとスズランの名所である甘利(あまり)山、御座石(ございし)・青木の温泉、窟(あな)観音などがある。サッカーの盛んなことでは全国的に有名。国史跡に新府城跡、また国重要文化財に武田八幡神社本殿(たけだはちまんじんじゃほんでん)、願成寺(がんじょうじ)の木造阿弥陀(あみだ)如来及両脇侍像がある。面積143.69平方キロメートル、人口2万9067(2020)。
[横田忠夫]
『『韮崎市誌』全4巻(1978・韮崎市)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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