顕真(読み)けんしん

改訂新版 世界大百科事典 「顕真」の意味・わかりやすい解説

顕真 (けんしん)
生没年:1130-92(大治5-建久3)

平安後期の天台宗の僧。葉室顕能の子に生まれ,延暦寺で梶井門跡系の僧となった。顕教を明雲,密灌を相実から受けたが,嘉応(1169-71)のころ隠遁して大原別所にこもり,明雲の推挙があってもそこを出なかった。やがて浄土宗の祖法然房源空に近づいたようで,1186年(文治2)大原の勝林院に源空を招き,俊乗房重源や嵯峨念仏房,それに大原別所の僧などとともに浄土法文を談じた。いわゆる大原談義で,その翌年には志を同じくする12人とともに,勝林院で不断念仏を始め,源空の同調者となった。90年(建久1)九条兼実などが推挙する慈円などを抜き,﨟次(ろうじ)(出家後の年数による位次)も越えて61代の天台座主となった。それは,梶井門跡と対抗する青蓮院門跡の全玄を座主から追うための謀議に加わったからで,ひとえに念仏に帰して座主となる望みは捨てたとたびたび起請したのに反する,と非難された。同年最勝会の証義を務め,権僧正にも昇った。
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朝日日本歴史人物事典 「顕真」の解説

顕真

没年:建久3.11.14(1192.12.20)
生年:天承1(1131)
鎌倉前期の僧侶。宣陽房と号す。美作守藤原顕能の子。法然を京都大原の住房勝林院に招いていわゆる「大原談義」を催したという逸話で有名。出家して延暦寺に入り明雲と相実について顕密の学(顕教と密教)を学んだが,承安3(1173)年,洛北大原に隠遁し念仏往生の道を求めた。文治2(1186)年,勝林院に法然を招き念仏往生に関して教えを請い,さらに法相宗貞慶,三論宗明遍,天台宗証真,東大寺大勧進重源 などを招き,三百余名の聴衆の前で公開の論議を行ったという。これを大原談義という。この逸話は法然関係の史料にのみ記録されているが,話の細部は別としても大筋史実である可能性が高いと考えられている。しかし世を捨ててひたすら浄土を求めたはずの彼も,死の2年前の建久1(1190)年にはついに天台座主に就任し,次いで権僧正に任じられて,最後は俗務にも従っている。

(小原仁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「顕真」の解説

顕真 けんしん

1131-1192 平安後期-鎌倉時代の僧。
天承元年生まれ。父は美作守(みまさかのかみ)藤原顕能(あきよし)。母は藤原為隆の娘。天台宗。比叡(ひえい)山の最雲法親王に師事し,明雲,相実に顕密をまなぶ。承安(じょうあん)3年大原に退隠。文治(ぶんじ)2年勝林院で法然に浄土の教えをとい(大原問答),その門に帰した。6年天台座主(ざす)。建久3年11月14日死去。62歳。号は宣陽房。著作に「山家要略記」。

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世界大百科事典(旧版)内の顕真の言及

【大原談義】より

…1186年(文治2)浄土宗の開祖法然が天台宗の学匠顕真の招請をうけ,洛北大原の勝林院において諸宗の碩学を相手に論議したこと。大原問答ともいう。…

【聖徳太子伝私記】より

…上宮王院,法隆寺などの聖徳太子に関係する遺跡,宝物や太子伝に関する秘事口伝などを示した書物。法隆寺僧顕真の著。2巻。…

※「顕真」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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