(佐伯弘次)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
室町初期の九州探題。左近将監(さこんのしょうげん)、右兵衛佐(うひょうえのすけ)。法号道鎮(どうちん)。今川了俊(いまがわりょうしゅん)(貞世(さだよ))罷免の後を受けて1396年(応永3)九州探題として博多(はかた)に赴任し、分国肥前をはじめ筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)、肥後などを治めた。了俊に反発していた島津(しまづ)氏は満頼に従ったが、筑前の少弐(しょうに)氏、肥前の千葉(ちば)氏などは容易に協力せず、満頼は九州経営に苦心した。しかし朝鮮にしばしば使節を送り大蔵経(だいぞうきょう)を求めるなど、通交、貿易を盛んにした。1419年(応永26)ころ子義俊(よしとし)に探題を譲り後見したが、23年義俊が少弐満貞に攻め破られて、九州探題の勢力は急速に衰えた。文安(ぶんあん)3年3月13日没。
[小川 信]
南北朝末期~室町前期の武将。法名道鎮。九州探題。摂津,備中,安芸,豊前,肥前,肥後の守護を歴任。九州探題今川了俊の後任として1396年(応永3)博多に着いて以来,九州の経営に尽力する一方,41年間にわたって朝鮮と交易した。少弐・千葉・菊池氏など在地勢力の抵抗のため了俊ほどの実績をあげえなかったが肥前にあっては相当の勢力を扶植した。
執筆者:森 茂暁
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…有能な了俊は,中央幕府にとって,もはや危険な存在となっていた。了俊解任により,渋川満頼が九州探題に任命され,以後,代々渋川氏(満頼,義俊,満直,教直,万寿丸など)が当職につき,一族・被官などを使って日鮮交渉に努めたりする。しかし早くも義俊のとき,1423年(応永30)少弐満貞に敗れてから,探題勢力は急速に衰え,その拠点筑前を失い,東肥前の一局地勢力にすぎなくなり,その存在意義を失ってしまう。…
…95年(応永2)8月今川了俊は九州探題を罷免され,京都に召還された。
[室町時代]
後任の九州探題には渋川満頼(しぶかわみつより)が任命され,96年博多に下向した。渋川氏は九州経営に努めるが,特に大宰府に本拠を置く少弐氏との競合を余儀なくされ,しだいに局地勢力化していく。…
※「渋川満頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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