日本歴史地名大系 「飯倉町五丁目」の解説
飯倉町五丁目
いいぐらまちごちようめ
飯倉町四丁目の南に続く年貢町屋。往還沿いに南に下る町の最下部で、三ヵ所に分れ最南部は
往還西側の横町の角地面はもと飯倉村分で旗本小出氏の無年貢地抱屋敷だったが、延享元年(一七四四)当町の庄兵衛が譲り受け、願によって検地の結果屋敷一反余、長さ三五間・横平均一二間余が新田高に入れられた。のち町屋敷となって当町へ組込み年貢を納め町用を勤める。往還東側の表間口九三間余は天明六年(一七八六)類焼後、南方の間口三六間余、家持三軒・上納地二ヵ所の地所が増上寺山内防火用地に召上げられ、同七年同所赤羽西側植木溜で増坪の代地を受けた。近い場所のため代地は名乗らなかった。防火用地は変遷ののち文化八年(一八一一)芝永井町に代地として渡され、そのとき町内北方裏手の先手組能勢邸も増上寺の囲込みになり、当町南の間口一二間余、家持二軒の地面を計り直し現在の形になった(文政町方書上)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報