飯沼村(読み)いいぬまむら

日本歴史地名大系 「飯沼村」の解説

飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]銚子市飯沼町・南町みなみちよう馬場町ばばちよう陣屋町じんやちよう東町ひがしちよう田中町たなかちよう後飯町ごはんちよう和田町わだちよう本町ほんちよう仲町なかちよう通町とおりちよう橋本町はしもとちよう清水町しみずちよう浜町はまちよう新地町しんちちよう竹町たけちよう内浜町うちばまちよう港町みなとちよう明神町みようじんちよう植松町うえまつちよう笠上町かさがみちよう川口町かわぐちちよう海鹿島町あしかじまちよう榊町さかきちよう愛宕町あたごちよう前宿町まえじゆくちよう粟島町あわしまちよう黒生町くろはいちよう幸町さいわいちよう弥生町やよいちようなど

現市域の東端、利根川河口の右岸に位置する。いわゆる銚子の中心で、江戸時代には河岸が置かれ、銚子道とともに観音霊場の円福えんぷく寺に参詣する客を運んだ。円福寺は飯沼観音ともいわれるが、建武元年(一三三四)六月の良胤譲状(円福寺文書)三崎みさき本庄ほんじよう郷之内飯沼寺とみえる。応安七年(一三七四)の海夫注文(香取文書)に「いゝぬまの津」「いひぬまかうやの津」とあり、飯沼氏(海上氏庶流)の知行分であった。また円福寺の地にはかつて海上氏の中島なかじま城の支城とされる飯沼城が築かれ、文明一一年(一四七九)当時師胤が居城していたが、太田道灌の軍勢により攻略されたという。町並は川岸から内陸に広がり、西の新生あらおい村・荒野こうや村に続いている。安政五年(一八五八)当時東芝ひがししば町・馬場町・前瀬子まえせこ町・西瀬子町・南瀬子町・入瀬子いりせこ町・清水町・浜町・浜宿はまじゆく町・田中町・東後飯町・西後飯町・和田町・飯貝根いがいね、また浜通飯沼村分として本町・竹町・十九夜じゆうくや町・浜町・田端たばた町・植松町があった(「銚子領村々記録」船橋市西図書館蔵)。この町並の東に川口神社が鎮座、この南東に太平洋に臨む黒生の集落があり、神社の北が飯貝根の集落で、その東手に女夫めとヶ鼻(夫婦ヶ鼻)が海に突き出し、北方にはたすけ島・大黒だいこく島・よんノ島・いちノ島などが続く。飯貝根は漁業集落で、伊貝根ともみえる。

天正一八年(一五九〇)松平外記伊昌が銚子飯沼郷で一五村・二千石を与えられ、年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では飯沼村一八二石余。寛永二年(一六二五)知行宛行状でも確認できる。同四年の海上うなかみ郡一八村・四千石の加増があり(同文書)、五代にわたり襲封した。同氏の陣屋が置かれたことは「家忠日記」に繰返し「飯沼松平外記」などとみえることから明らかであるが、具体的な場所となると中世の飯沼城跡(当然当時は円福寺の寺地)、のち上野高崎藩が用いた陣屋の地にすでに松平氏が普請していたものか未詳である。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]上郷町飯沼

現上郷町東部、天竜川の段丘崖下の自然湧水に潤される沼沢地で、古代には水田開拓の適地であった。善光寺の起源を記した「善光寺縁起」にいう「伊那郡宇(沼)村麻績里」は、当村から高岡(現飯田市座光寺)にかけての低平地だとする説がある(下伊那史)。また、この低平地は推定郡衙跡(現飯田市座光寺)に隣接していることや、古代東山道の通過した地と推定されること、「北条きたじよう」「ツボノシリ」の地名の存在、道路の配列や区画からみて、古代の条里的遺構がうかがわれる(上郷史)

確かな文献による初見は、嘉暦四年(一三二九)鎌倉幕府が飯沼郷の地頭らに諏訪社上社五月会の右頭役を勤仕させた鎌倉幕府下知状案(守矢文書)の「右頭、飯(沼)」である。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]丸子町大字生田いくた

依田よだ川下流西側一帯に広がる村。東は依田川を隔てて長瀬ながせ村、西は久保くぼ峠や山嶺を隔てて東塩田村(現上田市)、南は御嶽堂みたけどう村、北は尾野山おのやま村を境とする。依田庄立荘当初より中山なかやま(現丸子町大字御岳堂)などとともにこの荘の中心的地域と考えられる。河成段丘上に条里的遺構を残す水田地帯の西部山麓にある飯沼と中山のこの山麓にかけて窯跡が三つ発見され、その他にも二、三窯跡と思われるものがみられる。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]館山市飯沼

南条なんじよう村の東にあり、南は山荻やもおぎ村。汐入しおいり川中流右岸の支谷に展開する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では三九石余(うち田二四石余)。同一五年の里見家分限帳では府中ふちゆう(現三芳村)宝珠ほうじゆ院領になっている。その後も一貫して同領であったが、旧高旧領取調帳によると明治元年(一八六八)館山藩領となる。房陽郡郷考では家数一二。当地では明治・大正期に白土の採掘が盛んに行われた。字みねにある白土の採掘坑は享和三年(一八〇三)に開かれたとされ、一時中断するが天保五年(一八三四)鈴木吉右衛門が再興したという(安房志)。南東山荻村との境の汐入川に南条村、上・下の真倉さなぐら村へ引水するおんな堰がある。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]市原市飯沼

五井ごい村の南方、養老ようろう川左岸に位置する。古くは入沼いりぬま村と称した。応安五年(一三七二)五月の市原八幡宮五月会馬野郡四村配分帳(覚園寺文書)に入沼郷とみえ、五月会の費用として、修理所目代・惣社分・御厩党の大瓶、姉崎あねさき社・島穴しまあな社・検非違使所兄部・経所・鍛冶・仏師などの酒・菓子・粽など計一一貫六〇〇文が課されている。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]中津川市飯沼

木曾山脈の西端にあたる山と東に保古ほこ山を控え、谷と尾根が入組み複雑な地形を示している。飯沼川・山の田やまのた川は一つになり、花無はななし山・保古山の狭隘を抜け、阿木あぎ川に合流して北に流れ木曾川に注ぐ。慶長六年(一六〇一)岩村藩領となり、明治維新まで続く。慶長郷帳では高四五九石余。正保郷帳では飯妻村とあり、田方二六七石余・畑方二二石余、「無地之由」一六九石余。


飯沼村
いいぬまむら

[現在地名]庄和町飯沼

中野なかの村の南西にある。寛永(一六二四―四四)頃に開かれ、正保年中(一六四四―四八)に飯沼村と称したという(郡村誌)元禄郷帳に村名がみえ、高五二一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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