馬援(読み)ばえん(その他表記)Mǎ Yuán

改訂新版 世界大百科事典 「馬援」の意味・わかりやすい解説

馬援 (ばえん)
Mǎ Yuán
生没年:前14-49

中国,後漢の政治家,武将。字は子淵,茂陵(陝西省興平県)の出身。若くして大志をいだき,王莽おうもう)に仕えて新城大尹となったが,のち隗囂(かいごう)に身を寄せ,さらに光武帝に帰した。太中大夫に任ぜられて涼州を平定し,また隴西(ろうせい)太守となって先零の羌人(きようじん)を討ち,やがて中央に帰って虎賁(こふん)中郎将,ついで伏波将軍となり,交趾討伐に武功を立てて新息侯三千戸に封ぜられた。武陵蛮がそむくや,62歳の老齢で討伐におもむき,陣中で病没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「馬援」の意味・わかりやすい解説

馬援
ばえん
(前14―後49)

中国、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)、明帝(めいてい)の2代に仕えた名将軍。字(あざな)は文淵(ぶんえん)。右扶風(ゆうふふう)(前漢の畿内(きない)三郡の一つ)茂陵(もりょう)県(陝西(せんせい)省)の人。初め王莽(おうもう)政権に反旗を翻した隗囂(かいごう)の綏遠(すいえん)将軍となったが、のちに劉秀(りゅうしゅう)(光武帝)の軍に従った。以後、後漢政権の下で隴西(ろうせい)太守として西羌(せいきょう)を破り(35)、伏波(ふくは)将軍として交阯(こうし)(いまのベトナム)の徴側(ちょうそく)・徴貳(ちょうに)(チュン・チャク‐チュン・ニー)姉妹の反乱を抑え(41)、続いて武陵郡の五渓(ごけい)の蛮夷(ばんい)を討った(48)。彼は武力によって辺境少数民族の地域を侵略したが、一方で城郭造営灌漑(かんがい)事業にも努め、後漢帝国創始期の少数民族経営に大きな役割を果たした。また近世になると、道教とかかわって伏波将軍馬援が英雄的人物として民間に祀(まつ)られるようになった。

[鶴間和幸]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「馬援」の意味・わかりやすい解説

馬援
ばえん
Ma Yuan; Ma Yüan

[生]永始3(前14)
[没]建武25(後49)
中国,後漢初期の将軍。扶風,茂陵 (陝西省興平県北東) の人。字は文淵。前漢以来の名門の出身で,王莽のとき新城大尹 (天水郡守) となったが,のち後漢の光武帝に従った。隴西太守に任じられて先零羌 (きょう) を討伐し,また金城 (甘粛省蘭州) の維持経営をはかった。建武 17 (41) 年妖言をなす李広が乱を起すと,これを皖城 (安徽省懐寧県北西) に破り,さらに伏破将軍として交趾 (ベトナム) の徴側,徴弍姉妹の乱を平らげ,その功によって新息侯に封じられた。次いで匈奴,烏丸を討ち,同 24年には武陵 (湖南,貴州両省) 蛮討伐のために出陣したが,熱病者が続出し,彼も病没した。

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世界大百科事典(旧版)内の馬援の言及

【チュン姉妹】より

…チュン姉妹はただちに反乱に立ち上がり,たちまちのうちに広東省から北部ベトナムにかけての65城を落とし,自ら王位についた。しかし,翌41年漢は伏波将軍馬援に討伐を命じ,馬援は嶺南山脈を越えてランバク(浪泊。バクニン近辺)でチュン姉妹の軍を破り,次いでカムケー(禁渓)に退いた姉妹を攻撃,43年に捕らえて処刑した。…

【徴側】より

…朱鳶(しゆえん)(ハノイ南方)に嫁いだが,交趾郡太守の蘇定の圧政に憤り,40年(建武16)妹の徴弐(ちようじ)とともに反乱に立ち上がった。初め九真,日南,合浦の諸郡も呼応し,彼女は65城を占領して徴王と称したが,光武帝の派遣した伏波将軍馬援のひきいる1万余の兵に破られ,徴姉妹は捕らえられて斬首に処せられた。ベトナム人の中国支配に対する最大級の反乱であった。…

※「馬援」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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