改訂新版 世界大百科事典 「馬援」の意味・わかりやすい解説
馬援 (ばえん)
Mǎ Yuán
生没年:前14-49
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)、明帝(めいてい)の2代に仕えた名将軍。字(あざな)は文淵(ぶんえん)。右扶風(ゆうふふう)(前漢の畿内(きない)三郡の一つ)茂陵(もりょう)県(陝西(せんせい)省)の人。初め王莽(おうもう)政権に反旗を翻した隗囂(かいごう)の綏遠(すいえん)将軍となったが、のちに劉秀(りゅうしゅう)(光武帝)の軍に従った。以後、後漢政権の下で隴西(ろうせい)太守として西羌(せいきょう)を破り(35)、伏波(ふくは)将軍として交阯(こうし)(いまのベトナム)の徴側(ちょうそく)・徴貳(ちょうに)(チュン・チャク‐チュン・ニー)姉妹の反乱を抑え(41)、続いて武陵郡の五渓(ごけい)の蛮夷(ばんい)を討った(48)。彼は武力によって辺境少数民族の地域を侵略したが、一方で城郭の造営や灌漑(かんがい)事業にも努め、後漢帝国創始期の少数民族経営に大きな役割を果たした。また近世になると、道教とかかわって伏波将軍馬援が英雄的人物として民間に祀(まつ)られるようになった。
[鶴間和幸]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…チュン姉妹はただちに反乱に立ち上がり,たちまちのうちに広東省から北部ベトナムにかけての65城を落とし,自ら王位についた。しかし,翌41年漢は伏波将軍馬援に討伐を命じ,馬援は嶺南山脈を越えてランバク(浪泊。バクニン近辺)でチュン姉妹の軍を破り,次いでカムケー(禁渓)に退いた姉妹を攻撃,43年に捕らえて処刑した。…
…朱鳶(しゆえん)(ハノイ南方)に嫁いだが,交趾郡太守の蘇定の圧政に憤り,40年(建武16)妹の徴弐(ちようじ)とともに反乱に立ち上がった。初め九真,日南,合浦の諸郡も呼応し,彼女は65城を占領して徴王と称したが,光武帝の派遣した伏波将軍馬援のひきいる1万余の兵に破られ,徴姉妹は捕らえられて斬首に処せられた。ベトナム人の中国支配に対する最大級の反乱であった。…
※「馬援」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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