日本歴史地名大系 「馬谷村」の解説 馬谷村うまだにむら 島根県:益田市馬谷村[現在地名]益田市馬谷町益田川支流の笹倉(ささくら)川に流入する馬谷川流域に位置し、南は西長沢(にしながさわ)村、北は大屋形(おおやかた)村。地名は名馬摺墨の出産地によるという(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は高津(たかつ)村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高四三七石余。古高四〇八石余、寛永一四年(一六三七)の検地高四一三石余(万手鑑)。村の中心は小さな盆地で馬谷川の小川が南北に貫流する。大屋形村より下波田(しもはだ)村に通ずる道や大(おお)峠から笹田原(ささたばら)村に向かう道が交差する要地で、櫨や楮を植栽し、上納の代替として製紙に努めた。 馬谷村まだにむら 大阪府:南河内郡河南町馬谷村[現在地名]河南町馬谷芹生谷(せりうだに)村の北にあり、東・南・北は下河内(しもかわち)村。丘陵地に位置する。古くは上下の河内村と一村であったともいう。村名の由来は高麗よりの渡来人が住んだ高麗(こま)谷からとも(大阪府全志)、中世馬を追込んで放牧をしたからともいう(河南町誌)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高六三石余、幕府領。領主の変遷は平石(ひらいし)村に同じ。延宝七年(一六七九)九戸・四一人(建水分神社文書)。米・麦・木綿・里芋などの耕作、山地での薪炭作り・葛根掘りや機織などが生業だが、小村のため庄屋は西隣中(なか)村の庄屋兼帯のことが多い(河南町誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by