馬鞍村(読み)まくらむら

日本歴史地名大系 「馬鞍村」の解説

馬鞍村
まくらむら

[現在地名]平鹿町醍醐だいご

東は平野沢ひらのさわ村(現山内さんない村)に接する山際の村で、北は大屋寺内おおやてらうち(現横手市)、西は醍醐村、南は明沢あけさわ村と接する。

慶長二〇年(一六一五)の「まくらノ内、石成村物成諸役相定条々」(秋田県庁蔵)があり、「梅津政景日記」元和四年(一六一八)七月一八日条に、向右近宣政代官所支配の馬鞍の内の石成いしなり村肝煎の上納米横領の記事がみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に馬倉とあるが、享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、正保、元禄、宝永、享保の諸帳に馬鞍村、寛文貞享の諸帳に馬倉村と記されたとある。享保一五年の「六郡郡邑記」に村名の由来を正八幡しようはちまん社の神体である鞍によるとある。


馬鞍村
まぐらむら

[現在地名]河北町馬鞍

黒森くろもり(三八二・五メートル)の南麓にあり、東は橋浦はしうら(現北上町)、西は皿貝さらがい村。村南部を東西に道・古川ふつかわ堀が通り、南北に馬鞍川が流れる。島越しまのこしに高さ二丈、周囲二二間の八幡太郎義家が馬の鞍をおろして休息したという鞍懸くらかけ島といわれる小丘があり、村名の由来になったと伝える(安永風土記)。「観蹟聞老志」にも解鞍島とみえ、石墳いしづか島とも称したという。正保郷帳では田九貫三七七文・畑三貫五六一文で雑木山と注され、ほかに新田四六七文。「安永風土記」では田一三貫五一二文・畑四貫二六六文、うち茶畑六八二文で、すべて蔵入であった。人頭四六人で寛永一八年(一六四一)検地時の竿答百姓三〇人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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