高尾平兵衛(読み)たかおへいべえ

改訂新版 世界大百科事典 「高尾平兵衛」の意味・わかりやすい解説

高尾平兵衛 (たかおへいべえ)
生没年:1895-1923(明治28-大正12)

大正期の社会運動家。運送店の次男として長崎県で生まれる。高等小学校卒業後,大阪などで職業を転々とする。1919年7月の社会主義演説会で聴衆として検束されたのを機に大杉栄らの北風会に加入しつつ,老壮会にも加わる。森戸事件で森戸論文などの秘密出版によって禁錮5ヵ月を宣告される。出獄後の21年春に吉田一らと労働社を結成し,極東民族大会代表派遣に尽力し,みずからも22年夏にモスクワにおもむく。帰国後,中野正剛を介してヨッフェ招請を図るが,23年2月には共産党離党,吉田らと労働社の再建を志す。6月上杉慎吉らの制裁を企て,逆に右翼狙撃にあって落命する。
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朝日日本歴史人物事典 「高尾平兵衛」の解説

高尾平兵衛

没年:大正12.6.26(1923)
生年:明治29.12.1(1896)
大正期の戦闘的社会運動家。長崎県諫早市の商家で生まれた。製菓卸しなどに従事したのち,アナキズム系の北風会,次いで鉱山労働運動に参加。大正9(1920)年クロポトキンの『法律と強権』などをガリ版刷りで刊行,禁固5カ月と罰金の刑に処せられた。10年吉田一らの労働社に参加し,宮嶋資夫,和田軌一郎らとは黒瓢会(北風会の後継)を主宰した。その年の足尾銅山争議では煽動の罪で2カ月の刑に処された。11年には過激社会運動取締法案に最も先鋭的に反対する。同年モクスワに渡り,レーニンとも会見した。帰国後,共産党に入党するも,すぐに離党し,アナ・ボル協同戦線を企図。12年吉田,石黒鋭一郎,平岩巌らと戦線同盟を結成して赤化防止団長米村嘉一郎宅に抗議に出かけるが,逆に米村にピストルで射殺された。日本最初の社会葬として葬られた。<参考文献>萩原晋太郎『墓標なき革命家』

(小松隆二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高尾平兵衛」の解説

高尾平兵衛 たかお-へいべえ

1895-1923 大正時代の社会運動家。
明治28年12月1日生まれ。大正8年社会主義演説会で検挙され,獄中で大杉栄らと知りあい北風会に参加。11年ソ連に潜行しレーニンとあう。帰国後共産党員となったが,翌年脱党。12年6月26日赤化防止団長の米村嘉一郎をおそい,逆に射殺された。29歳。長崎県出身。

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