中野正剛(読み)ナカノセイゴウ

デジタル大辞泉 「中野正剛」の意味・読み・例文・類語

なかの‐せいごう〔‐セイガウ〕【中野正剛】

[1886~1943]政治家福岡の生まれ。新聞記者を経て衆議院議員となり、憲政会立憲民政党所属東方会を組織し、民間での全体主義運動を推進。「戦時宰相論」で東条英機首相を批判、さらに内閣打倒を策して逮捕され、釈放直後自殺。

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精選版 日本国語大辞典 「中野正剛」の意味・読み・例文・類語

なかの‐せいごう【中野正剛】

  1. 政治家。福岡県出身。朝日新聞記者を経て、大正九年(一九二〇)から衆議院議員。憲政会、立憲民政党に属す。昭和一一年(一九三六)東方会を組織し、同一五年大政翼賛会常任総務。「戦時宰相論」で東条英機首相を批判し、内閣打倒を策して逮捕された。釈放直後に自殺。明治一九~昭和一八年(一八八六‐一九四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中野正剛」の意味・わかりやすい解説

中野正剛
なかのせいごう
(1886―1943)

政治家。明治19年2月12日福岡市に生まれる。早稲田(わせだ)大学卒業。東京朝日新聞記者を経て1920年(大正9)から衆議院議員に連続8回当選。犬養毅(いぬかいつよし)を尊敬し革新倶楽部(くらぶ)に入ったが、その後、憲政会、立憲民政党を経て、1932年安達謙蔵(あだちけんぞう)らと国民同盟結成した。満州事変のころから国家社会主義を信奉し、1933年(昭和8)思想団体東方会を組織、1935年国民同盟から離脱、1936年に東方会を政治結社に改組した。1940年大政翼賛会常任総務となったが、同会に失望して翌1941年辞任。戦時刑事特別法改正を契機として東条英機(とうじょうひでき)首相と激しく対立し、『朝日新聞』1943年元旦(がんたん)号に「戦時宰相論」を寄稿して東条を激怒させた。同年10月21日、直接行動で倒閣を図ったとされた東方同志会事件で逮捕され、25日身柄を警視庁から憲兵隊に移されたが、小林健治裁判官が勾留(こうりゅう)を却下したため26日釈放された。しかしその深夜、日本刀で切腹自殺を遂げた。自殺の原因はいまも謎(なぞ)に包まれている。

[大野達三]

『猪俣敬太郎著『中野正剛』(1988・吉川弘文館)』『中野泰雄著『父・中野正剛――その時代と思想』(1994・恒文社)』『緒方竹虎著『人間中野正剛』(中公文庫)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「中野正剛」の解説

中野 正剛
ナカノ セイゴウ


肩書
衆院議員(無所属),東方会総裁

別名
幼名=甚太郎 号=耕堂

生年月日
明治19年2月12日

出生地
福岡県福岡市

学歴
早稲田大学政経科〔明治42年〕卒

経歴
東京朝日新聞に入り、政治評論を執筆。大正5年東方時論社に移り、主筆兼社長に就任。日本外交を批判した「講話会議を目撃して」がベストセラーとなる。9年以来衆院議員に当選8回。革新倶楽部、憲政会から立憲民政党に移り遊説部長。この間、大蔵参与官、逓信政務次官、民政党総務などを歴任。昭和6年安達謙蔵と共に脱党し、7年国民同盟を結成、ファシズムに走る。11年から全体主義政党・東方会(のち東方同志会)総裁として“アジア・モンロー主義”的な運動を展開、南進論、日独伊三国同盟などを提唱。15年大政翼賛会総務となるが、その権力強化に反発して17年を脱会。18年「戦時宰相論」を執筆して東条内閣を批判、憲兵隊の取調べを受け割腹自決した。雄弁で筆も立ち大衆的人気があった。

没年月日
昭和18年10月27日

家族
弟=中野 秀人(詩人・評論家) 息子=中野 泰雄(亜細亜大学名誉教授)

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改訂新版 世界大百科事典 「中野正剛」の意味・わかりやすい解説

中野正剛 (なかのせいごう)
生没年:1886-1943(明治19-昭和18)

大正・昭和初期の政治家。福岡市に生まれる。幼名甚太郎,のち正剛に改名。早稲田大学卒業後ジャーナリストとなり,初め《東京朝日新聞》で,次いで《東方時論》誌に拠って健筆をふるう。護憲派記者として反藩閥・反政友会の論陣をはり,寺内正毅朝鮮総督の憲兵政治を非難した。対独参戦・シベリア出兵に反対し,パリ講和会議での日本外交を退嬰的(たいえいてき)旧外交と批判した。総じて1910-20年代の中野は〈内に民本主義外に(反アングロ・サクソン的)帝国主義〉と規定できる。20年に代議士初当選(福岡1区,無所属)。のち革新俱楽部,憲政会へと転じる。憲政会,民政党の少壮幹部として議会で反政府の熱弁をふるう。満州事変時に幣原外交・井上財政に反対して協力内閣運動を起こし,民政党を脱党(1932)。一時国民同盟に所属するが,二・二六事件後は全体主義政党東方会の党首となり,〈アジア・モンロー主義的〉な対外硬運動を展開する。日米開戦後,戦争遂行方針をめぐって東条英機政権と対立(《戦時宰相論》(《朝日新聞》1943年1月1日号掲載)),反東条重臣工作を企てて逮捕される。釈放後割腹自殺を遂げる。
東方会
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「中野正剛」の解説

中野 正剛
ナカノ セイゴウ

大正・昭和期の政治家,ジャーナリスト 東方会総裁;衆院議員(無所属)。



生年
明治19(1886)年2月12日

没年
昭和18(1943)年10月27日

出生地
福岡県福岡市

別名
幼名=甚太郎,号=耕堂

学歴〔年〕
早稲田大学政経科〔明治42年〕卒

経歴
東京朝日新聞に入り、政治評論を執筆。大正5年東方時論社に移り、主筆兼社長に就任。日本外交を批判した「講話会議を目撃して」がベストセラーとなる。9年以来衆院議員に当選8回。革新倶楽部、憲政会から立憲民政党に移り遊説部長。この間、大蔵参与官、逓信政務次官、民政党総務などを歴任。昭和6年安達謙蔵と共に脱党し、7年国民同盟を結成、ファシズムに走る。11年から全体主義政党・東方会(のち東方同志会)総裁として“アジア・モンロー主義”的な運動を展開、南進論、日独伊三国同盟などを提唱。15年大政翼賛会総務となるが、その権力強化に反発して17年を脱会。18年「戦時宰相論」を執筆して東条内閣を批判、憲兵隊の取調べを受け割腹自決した。雄弁で筆も立ち大衆的人気があった。

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百科事典マイペディア 「中野正剛」の意味・わかりやすい解説

中野正剛【なかのせいごう】

政治家。福岡県の生れ。早大卒。《東京朝日新聞》などで記者を務め,護憲,反藩閥政治・反政友会の論陣を張る。1920年衆議院議員となり以後当選8回。革新倶楽部憲政会,立憲民政党などに所属。満州事変後,幣原(しではら)外交・井上財政を批判して脱党,1932年安達謙蔵らと国民同盟を結成,1933年東方会を組織し総裁,〈アジア・モンロー主義〉的な対外硬運動を展開。日米開戦後,東条英機政権と対立,1943年東条内閣倒閣容疑で逮捕され,釈放後自殺。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中野正剛」の意味・わかりやすい解説

中野正剛
なかのせいごう

[生]1886.2.12. 福岡
[没]1943.10.27. 東京
政治家。早稲田大学卒業。新聞記者を経て 1920年代議士となり,革新倶楽部立憲民政党などで活躍。 1936年国家主義団体の東方会を組織し,ナチスに傾倒した。やがて東条英機と対立,1943年 10月 21日逮捕。5日後の 26日釈放され自邸に戻ったが,同夜自室で割腹自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中野正剛」の解説

中野正剛 なかの-せいごう

1886-1943 大正-昭和時代前期の政治家。
明治19年2月12日生まれ。「東京朝日新聞」記者をへて東方時論社主筆となり,のち社長。大正9年衆議院議員(当選8回)。昭和11年東方会を結成,南進論を提唱。18年東条内閣打倒を画策して逮捕され,釈放後の同年10月27日自殺。58歳。福岡県出身。早大卒。号は耕堂。著作に「明治民権史論」「国家改造計画綱領」など。
【格言など】東方九拝,平静にして余裕綽々(しゃくしゃく),自笑(遺書)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中野正剛」の解説

中野正剛
なかのせいごう

1886.2.12~1943.10.27

大正・昭和前期の政治家。福岡県出身。早大卒。1920年(大正9)から衆議院議員。31年(昭和6)満州事変勃発後,安達謙蔵内相の協力内閣運動に加わり,民政党を脱党。32年国民同盟(党首安達謙蔵)を結成したが,36年国家主義的な東方会を結成しみずから総裁となる。太平洋戦争の戦局が悪化すると,東条内閣の倒閣を画策したため,43年10月21日憲兵隊に捕らわれ,釈放後割腹自殺した。

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367日誕生日大事典 「中野正剛」の解説

中野 正剛 (なかの せいごう)

生年月日:1886年2月12日
大正時代;昭和時代の政治家。衆議院議員
1943年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中野正剛の言及

【我観】より

…1923年(大正12)10月創刊された時論雑誌,総合雑誌。《日本及日本人》を主宰していた三宅雪嶺が,関東大震災を機に政教社と分かれて,女婿の中野正剛とともに発行。雪嶺の哲学的論文,時論がつねに巻頭を飾ったほか,中野正剛,杉森孝次郎,田川大吉郎らが筆をふるい,文芸欄には尾崎士郎,正宗白鳥らが寄稿した。…

【東方会】より

中野正剛を盟主とする国家主義政党。東方会の活動は1933年に当時国民同盟代議士であった中野が友人・同志を集めて国策研究団体を組織し,その成果を《国家改造計画綱領》として公表したことにはじまる。…

【老壮会】より

…会としての一定の主義・方針はなく,内外の諸問題について意見を交換し研究することを目的としていた。満川や大川周明をはじめとする後年の国家主義運動の指導者ばかりでなく,堺利彦,高尾平兵衛などの社会主義者,高畠素之などの国家社会主義者や,大井憲太郎,嶋中雄三,下中弥三郎,権藤成卿,中野正剛など多彩な人々が参加したことに特色があった。満川が猶存社の活動に力を入れるにしたがって老壮会の活動はしだいに衰えたが,22年まで44回の会合を開き,500名をこえる参加者があったといわれる。…

※「中野正剛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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