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中野正剛 なかの せいごう

美術人名辞典の解説

中野正剛

政治家。福岡県生。幼名は甚太郎、号は耕堂。早大卒後、東京朝日新聞記者として護憲運動に奔走し、『東方時論』を刊行。のち衆議院に8回当選し、革新倶楽部憲政会民政党に属して活躍。満州事変後は協力内閣運動を起こすが失敗。国民同盟東方会を組織し全体主義を推進した。翼賛会常任総務となるが辞任し、東条内閣対立する。昭和18年(1943)歿、58才。

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百科事典マイペディアの解説

中野正剛【なかのせいごう】

政治家。福岡県の生れ。早大卒。《東京朝日新聞》などで記者を務め,護憲,反藩閥政治・反政友会の論陣を張る。1920年衆議院議員となり以後当選8回。革新倶楽部憲政会,立憲民政党などに所属。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中野正剛 なかの-せいごう

1886-1943 大正-昭和時代前期の政治家。
明治19年2月12日生まれ。「東京朝日新聞」記者をへて東方時論社主筆となり,のち社長。大正9年衆議院議員(当選8回)。昭和11年東方会を結成,南進論を提唱。18年東条内閣打倒を画策して逮捕され,釈放後の同年10月27日自殺。58歳。福岡県出身。早大卒。号は耕堂。著作に「明治民権史論」「国家改造計画綱領」など。
【格言など】東方九拝,平静にして余裕綽々(しゃくしゃく),自笑(遺書)

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世界大百科事典 第2版の解説

なかのせいごう【中野正剛】

1886‐1943(明治19‐昭和18)
大正・昭和初期の政治家。福岡市に生まれる。幼名甚太郎,のち正剛に改名。早稲田大学卒業後ジャーナリストとなり,初め《東京朝日新聞》で,次いで《東方時論》誌に拠って健筆をふるう。護憲派記者として反藩閥・反政友会の論陣をはり,寺内正毅朝鮮総督の憲兵政治を非難した。対独参戦・シベリア出兵に反対し,パリ講和会議での日本外交を退嬰的(たいえいてき)旧外交と批判した。総じて1910‐20年代の中野は〈内に民本主義外に(反アングロ・サクソン的)帝国主義〉と規定できる。

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大辞林 第三版の解説

なかのせいごう【中野正剛】

1886~1943) 政治家。福岡県生まれ。早大卒。新聞記者を経て、衆議院議員となり、憲政会・立憲民政党に属す。東方会を組織し、対外強硬策を主張して大衆運動を展開。1943年(昭和18)「戦時宰相論」を発表、東条首相と対立し、割腹自殺した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中野正剛
なかのせいごう

[生]1886.2.12. 福岡
[没]1943.10.27. 東京
政治家。早稲田大学卒業。新聞記者を経て 1920年代議士となり,革新倶楽部立憲民政党などで活躍。 1936年国家主義団体の東方会を組織し,ナチスに傾倒した。やがて東条英機と対立,1943年 10月 21日逮捕。5日後の 26日釈放され自邸に戻ったが,同夜自室で割腹自殺した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中野正剛
なかのせいごう
(1886―1943)

政治家。明治19年2月12日福岡市に生まれる。早稲田(わせだ)大学卒業。東京朝日新聞記者を経て1920年(大正9)から衆議院議員に連続8回当選。犬養毅(いぬかいつよし)を尊敬し革新倶楽部(くらぶ)に入ったが、その後、憲政会、立憲民政党を経て、1932年安達謙蔵(あだちけんぞう)らと国民同盟を結成した。満州事変のころから国家社会主義を信奉し、1933年(昭和8)思想団体東方会を組織、1935年国民同盟から離脱、1936年に東方会を政治結社に改組した。1940年大政翼賛会常任総務となったが、同会に失望して翌1941年辞任。戦時刑事特別法改正を契機として東条英機(とうじょうひでき)首相と激しく対立し、『朝日新聞』1943年元旦(がんたん)号に「戦時宰相論」を寄稿して東条を激怒させた。同年10月21日、直接行動で倒閣を図ったとされた東方同志会事件で逮捕され、25日身柄を警視庁から憲兵隊に移されたが、小林健治裁判官が勾留(こうりゅう)を却下したため26日釈放された。しかしその深夜、日本刀で切腹自殺を遂げた。自殺の原因はいまも謎(なぞ)に包まれている。[大野達三]
『猪俣敬太郎著『中野正剛』(1988・吉川弘文館) ▽中野泰雄著『父・中野正剛――その時代と思想』(1994・恒文社) ▽緒方竹虎著『人間中野正剛』(中公文庫)』

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世界大百科事典内の中野正剛の言及

【我観】より

…1923年(大正12)10月創刊された時論雑誌,総合雑誌。《日本及日本人》を主宰していた三宅雪嶺が,関東大震災を機に政教社と分かれて,女婿の中野正剛とともに発行。雪嶺の哲学的論文,時論がつねに巻頭を飾ったほか,中野正剛,杉森孝次郎,田川大吉郎らが筆をふるい,文芸欄には尾崎士郎,正宗白鳥らが寄稿した。…

【東方会】より

中野正剛を盟主とする国家主義政党。東方会の活動は1933年に当時国民同盟代議士であった中野が友人・同志を集めて国策研究団体を組織し,その成果を《国家改造計画綱領》として公表したことにはじまる。…

【老壮会】より

…会としての一定の主義・方針はなく,内外の諸問題について意見を交換し研究することを目的としていた。満川や大川周明をはじめとする後年の国家主義運動の指導者ばかりでなく,堺利彦,高尾平兵衛などの社会主義者,高畠素之などの国家社会主義者や,大井憲太郎,嶋中雄三,下中弥三郎,権藤成卿,中野正剛など多彩な人々が参加したことに特色があった。満川が猶存社の活動に力を入れるにしたがって老壮会の活動はしだいに衰えたが,22年まで44回の会合を開き,500名をこえる参加者があったといわれる。…

※「中野正剛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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