デジタル大辞泉 「高平小五郎」の意味・読み・例文・類語 たかひら‐こごろう〔‐こゴラウ〕【高平小五郎】 [1854~1926]外交官。陸奥むつの生まれ。欧米各国の公使を歴任。ポーツマス講和会議で小村寿太郎とともに全権委員。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「高平小五郎」の意味・読み・例文・類語 たかひら‐こごろう【高平小五郎】 外交官。陸奥(岩手県)の生まれ。日露戦争講和に際し小村外相とともに全権委員。その後アメリカとの間に、高平‐ルート協定を結ぶ。安政元~大正一五年(一八五四‐一九二六) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「高平小五郎」の解説 高平 小五郎タカヒラ コゴロウ 明治期の外交官,男爵 駐米大使;貴院議員(勅選)。 生年嘉永7年1月1日(1854年) 没年大正15(1926)年11月28日 出生地陸奥国一関(岩手県一関市) 旧姓(旧名)田崎 学歴〔年〕開成学校(現・東大)〔明治6年〕卒 経歴一関藩士・田崎三徹の三男に生まれ、同藩士・高平真藤の養子となる。明治6年工部省に出仕し、9年外務省に転じた。27年駐イタリア公使、28年駐オーストリア兼スウェーデン公使、32年外務次官、33年駐米公使を歴任。38年ポーツマス講和会議に小村寿太郎とともに全権委員として出席。翌39年男爵を授けられ、同年〜40年貴院議員に勅選された。41年駐米大使となり、国務長官ルートとの間に〈高平・ルート協定〉を締結した。43年伏見宮貞愛親王に随行して渡英、45年退官した。大正6〜15年再度貴院議員に勅選された。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「高平小五郎」の解説 高平小五郎 没年:大正15.11.28(1926) 生年:安政1.1.1(1854.1.29) 明治大正期の外交官。一ノ関藩(岩手県)藩士田崎三徹の3男。同藩士高平真藤の養子となる。戊辰奥羽戦争に従軍。明治3(1870)年貢進生として大学南校(東京大学)に入学。6年卒業,工部省出仕。9年外務省出仕となり12年より米国公使館勤務。日米約定交渉の事後処理などにかかわったのち,18年ソウル公使館勤務。20年上海領事を経て,24年総領事としてニューヨーク勤務。25年駐オランダ兼デンマーク弁理公使,27年駐イタリア特命全権公使,28年オーストリア兼スイス公使と転々としたのち,32年外務次官,33年より駐米公使。日露戦後のポーツマス会議(1905)では小村外相と共に全権として働く。39年貴族院勅選議員となるが40年再びイタリア公使,男爵。41年米国公使となり,太平洋の現状維持,中国での機会均等を決めた高平・ルート協定を結ぶ。43年貞愛親王に随行し渡英,大正6(1917)年再び貴族院勅選議員。無所属派,のち同成会に属す。 (酒田正敏) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高平小五郎」の解説 高平小五郎 たかひら-こごろう 1854-1926 明治-大正時代の外交官。嘉永(かえい)7年1月14日生まれ。高平真藤の養子。大学南校にまなぶ。外務省にはいり,イタリア,オーストリア,アメリカの公使を歴任。明治38年日露講和会議全権委員。41年アメリカ大使となり,ルート国務長官と「高平-ルート協定」をむすんだ。貴族院議員。大正15年11月28日死去。73歳。陸奥(むつ)一関(岩手県)出身。本姓は田崎。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「高平小五郎」の解説 高平 小五郎 (たかひら こごろう) 生年月日:1854年1月1日明治時代の外交官1926年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by