高林坊(読み)こうりんぼう

日本歴史地名大系 「高林坊」の解説

高林坊
こうりんぼう

[現在地名]甲田町高田原

大土おおつち川南岸、東の馬通峠まどおしだおに通じる街道沿いに位置する。浄土真宗本願寺派。石丸山と号し、本尊阿弥陀如来。明応五年(一四九六)浄誓の開基と伝える。浄誓は新田義重の孫福間藤左衛門の子宮徳丸で、本願寺実如により薙髪し、甲立の五竜こうたちのごりゆう城城下に一宇建立。慶長の末頃、四世西願の時高田原たかたばらに移転した。浄誓は吉田よしだ(現吉田町)にも高林坊を創建している。当寺はのち三次の照林みよしのしようりん坊と縁戚関係を結び勢力を拡大、芸備両国に一六ヵ寺の末寺、二八ヵ寺の孫末寺、寺内に四ヵ寺の下寺をもつ大寺となり、安芸本山と称される規模となった。


高林坊
こうりんぼう

[現在地名]吉田町吉田 新町

多治比たじい川の東、吉田の中心部北側にあり、浄土真宗本願寺派。石室山と号し、本尊阿弥陀如来。天文年中(一五三二―五五)僧浄誓の開基。浄誓は初め高田原たかたばら(現甲田町)に高林坊を創立したが、吉田にも来て当寺を開基、同号を用いた。後年高田原高林坊の通寺となったが、四世西願の後暫時無住となり、のちに住職を得たがさらに一二世勉道のあと再び無住となった。また本寺との間に紛争があり、宗廓を迎えてのちは独立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高林坊の言及

【甲田[町]】より

…野菜や果樹の栽培,畜産が盛んで,二十世紀梨は可愛川右岸の高田原を中心に栽培され,高田梨として出荷されている。浄土真宗の安芸の本山とも称される高林坊や中世に当地を支配した宍戸氏の居城五竜城跡,同氏ゆかりの理窓院がある。可愛川に沿ってJR芸備線,国道54号線が広島市,三次(みよし)市へ通じる。…

※「高林坊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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