日本歴史地名大系 「高瀬城跡」の解説 高瀬城跡たかせじようあと 島根県:簸川郡斐川町宇屋神庭村高瀬城跡[現在地名]斐川町学頭・神庭神庭(かんば)の南東、標高三一九メートルの高瀬山にあった山城。東の大黒(だいこく)山から西の仏経(ぶつきよう)山に続く山脈は通称南(みなみ)山とよばれる。この間にあるのが高瀬山で、戦国期に尼子氏の防衛体制の重要拠点であった。甲(つめ)の丸(大高瀬)と二の丸(小高瀬)、低丘陵の鉄砲立(てつぽうだて)の三段階からなる独立丘陵と頂上部から北西約四〇〇メートルに位置する標高二五二メートルの平坦地を中心とする郭群、さらには高瀬山から北に延びる宇屋(うや)谷と神庭谷に挟まれた丘陵上の郭群からなり、石垣などはみられない。 高瀬城跡たかせじようあと 熊本県:玉名市高瀬町高瀬城跡[現在地名]玉名市高瀬 保田木町高瀬東部の保田木(ほたき)丘陵地に位置し、保田木神社とその一帯を城跡と伝える。神社や宅地などによって遺構はまったく確認されないが、神社北側を東西に走る通称「十左衛門堀」は江戸時代に当城の堀を改修して用水路にしたものと伝える。近世には高瀬町の奉行所や奉行の屋敷地となっていた(古城考)。別に保田木城とも称した。菊池氏一族の高瀬氏代々の居城。築城時期は不明であるが、高瀬系図(「事蹟通考」所収)の高瀬氏の祖菊池武尚の項に玉名郡大野(おおの)別符を領し「居高瀬保多木城」とあるが、子の肥後守護代菊池武国が「たかせとの」の別称をもつことから(年未詳九月一二日「高瀬武国書状」小代文書)、武国の頃から高瀬・高瀬津を支配する必要から居城としたものと思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by