高瀬郷(読み)たかせごう

日本歴史地名大系 「高瀬郷」の解説

高瀬郷
たかせごう

和名抄三野みの郡高瀬郷の郷名をつぐ。上高瀬、下高瀬(現三野町)を遺称地とし、高瀬町北西部から三野一帯に推定される。弘安六年(一二八三)秋以前の浄成申状(「兼仲卿記」弘安六年秋冬紙背文書)によれば、当郷は知行国主九条道家より那珂なか下金倉しもかなくら(現丸亀市)とともに近江園城おんじよう寺へ付されたが、建長元年(一二四九)に讃岐国が蓮華王れんげおう(現京都市東山区)の造営料国に充てられると公領にもどされた。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に「高瀬郷 源中納言有房」とあり、皇室料として伝領され、知行主は権中納言源有房であった。

一方、弘安年間に甲斐源氏秋山氏が当郷に来住、貞和三年(一三四七)四月一一日の源泰長・同泰忠連署分帳(秋山家文書、以下同文書を省略)によれば、秋山氏は当郷地頭職を所持し、建武三年(一三三六)二月一五日の足利尊氏下知状(写)で領家職が給付されている。

高瀬郷
たかせごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠くが、讃岐国三野みの郡の同名の郷は「多加世」と訓じ、また「延喜式」神名帳には高瀬神社があげられている。高瀬の地名の初見史料は「播磨国風土記」で、賀古郡の条に「摂津国高瀬のわたり」とある。淀川の渡河地点である。また「住吉大社神代記」の「長柄船瀬本記」に長柄ながらの船瀬(港)の四至東限が高瀬大庭たかせおおばと記され、「行基年譜」の「天平十三年記」に茨田郡高瀬里がみられる。ここには高瀬大橋が架設され、高瀬から生駒山への直道(直線道路)が作られていて、灌漑用の高瀬堤樋と高瀬橋院が存在した(同書)。また「日本紀略」延暦四年(七八五)九月二八日条にも高瀬橋がみえる。

高瀬郷
たかせごう

「和名抄」東急本は「多加世」と訓を付す。中世には公領の高瀬郷がみえ、秋山氏が地頭職を相伝した。現三豊みとよ郡の高瀬町上高瀬、三野町下高瀬を遺称地とし、高瀬川下流から河口域の三野町大見おおみ詫間たくま松崎まつさきを含む一帯に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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