茨城県北東部にある市。1954年(昭和29)高萩町、松岡町、高岡村と、黒前(くろさき)村および櫛形(くしがた)村の各一部が合併して市制施行。明治時代以後、常磐炭田(じょうばんたんでん)の開発で旧松原町の高萩が発展して中心地となり、松原町が1937年(昭和12)高萩町と改称、これが市名となった。大部分を多賀(たが)山地が占め、太平洋に面して海岸段丘と沖積低地がある。JR常磐線と国道6号、461号が通じ、常磐自動車道高萩インターチェンジがある。古く多珂(たか)(高)国に含まれたと伝え、中世は佐竹氏の支配地、近世は水戸藩領となり、1868年(明治1)付家老(つけがろう)中山氏が独立して松岡藩をたてた(2万5000石)。のち多賀郡役所が置かれて以来、多賀地方の行政の中心地となり、諸官庁や会社も設置された。明治中期以降、石炭産業の発展で繁栄したが、1967年以降、主要炭鉱が閉山し、かわって工業団地が造成され、薬品、製紙、機械などの工場が増加、住宅地も造成された。山間部の森林は国有林面積が県内上位で林業が営まれる。もと馬産地で水戸徳川家の大能牧場(おおのうぼくじょう)もあったが、現在は肉牛飼育が盛ん。大北(おおきた)川、花貫(はなぬき)川の渓谷は水力発電所と景勝地が多く、花園(はなぞの)花貫県立自然公園に指定されている。土岳(つちだけ)(599メートル)、花貫ダムはレクリエーション地帯。安良川(あらかわ)の爺(じじ)スギは国指定天然記念物。江戸後期の地理学者長久保赤水(せきすい)の出生地で旧宅が残る。面積193.58平方キロメートル、人口2万7699(2020)。
[櫻井明俊]
『『高萩市史』上下(1969・高萩市)』
茨城県北東部の市。1954年市制。人口3万1017(2010)。市域は阿武隈高地とその東麓の海岸段丘面に広がり,東は太平洋に臨む。中心市街の高萩は花貫(はなぬき)川の沖積地にあり,岩城相馬(いわきそうま)街道の宿場町として発達した。炭鉱の開発は幕末に水戸藩が海防用の大砲を鋳造するために用いた燃料の確保に始まるが,1897年日本鉄道磐城線(現,JR常磐線)の開通に伴って山麓部での炭鉱操業が活発となり,炭鉱町が形成され,県北東部,とりわけ多賀郡内の行政・商業の中心になった。石炭鉱業は1950年代に最盛期を迎えたが,エネルギー革命の影響を強くうけ,炭質不良,採炭条件の悪化のため73年に全面閉山に追い込まれた。産炭地域振興策として工業団地の造成,炭鉱跡地の住宅地化などが行われ,パルプ,化学,金属工業などが発展している。常磐自動車道のインターチェンジがある。山間部は江戸時代に水戸藩の馬牧が置かれ馬産地として知られたが,今は肉牛に転換した。ほかにコンニャク栽培が盛ん。南の日立市の旧十王町にまたがって国際電信電話会社茨城衛星通信所(現,KDDI茨城衛星通信センター)があり,赤浜には《改正日本輿地路全図》などを著した江戸後期の地理学者長久保赤水の旧宅がある。
執筆者:中川 浩一
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