日本の城がわかる事典 「魚津城」の解説 うおづじょう【魚津城】 富山県魚津市にあった平城(ひらじろ)。1335年(建武2)に、椎名孫八入道によって築城されたと伝えられている。室町時代の越中国守護の畠山氏に仕え、越中の東半分を勢力下に収めた守護代の椎名氏の居城・松倉城の支城となった。戦国時代、椎名康胤は越中国西部を領有する半国守護代の神保氏の攻勢により苦境に立った際、越後の上杉謙信の傘下に入ることで危機を逃れた。その後、康胤は謙信から離反して越中の一向一揆衆と手を結び、甲斐の武田信玄に与した。このため、椎名氏は謙信に攻められて越中から追放され、魚津城には謙信の部将河田長親が城代として入城した。その後、越前と加賀を制圧した織田信長の軍勢が越中に侵攻し、1582年(天正10)には、越後の前線拠点となった魚津城を舞台に柴田勝家率いる織田方の大軍との間に激戦が繰り広げられた(魚津城の戦い)。攻城戦が始まって間もなく城は落ちたが、本能寺の変が起こり、信長が討ち死にしたことから織田軍は撤退し、上杉勢により奪回された。翌1583年(天正11)、魚津城は態勢を立て直した佐々成政により再び包囲され、須田満親は降伏して開城。上杉氏による魚津城の支配は終わり、富山城を居城とする成政の持ち城となった。その後、成政は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して、秀吉に攻められ、越中における基盤を失い、肥後国(熊本県)に国替えとなった。成政が去った後、魚津城は前田氏の持ち城となり、青山吉次などが城代をつとめたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられている。しかし、加賀藩は城を破却することなく、松倉城同様、米蔵や武器庫として利用し、城郭としての機能を存続させた。城跡には、明治の初めごろまでは堀や土塁などが残されていたが、現在、遺構はほとんど失われてしまっている。城跡は大町小学校(本丸跡)や裁判所などの敷地となっている。JR北陸本線魚津駅から徒歩約20分。◇小津城、小戸城ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報