鮎河村(読み)あいがむら

日本歴史地名大系 「鮎河村」の解説

鮎河村
あいがむら

[現在地名]土山町鮎河

青土おおづち村の東にあり、山に囲まれた山村。東は鈴鹿山脈の主稜線となり、伊勢国との国境をなす。集落松尾まつお(野洲川)に沿って形成される。鮎川とも記された。村の東方せんヶ岳北側の鞍部を越え、伊勢国小岐須おぎす(現三重県鈴鹿市)に抜ける小岐須越があった。建武五年(一三三八)南朝方の土豪頓宮肥後弥九郎が五辻宮を奉じて鮎河城や鷹尾城に立籠ったが、北朝方の山中氏や小佐治氏がこれを攻略している(同年二月二五日「山中道俊・同頼俊軍忠状」山中文書など)中世は土豪黒川氏と大河原氏の支配を受けたと伝える。

慶長五年(一六〇〇)幕府領、元禄郷帳では宮川藩領、天明村高帳では京都所司代牧野貞長領。その後再び幕府領となる(文政石高帳など)。寛永石高帳では高九二五石余、ほか銀一一〇匁余・銭八文。慶安二年書上では田四一六石余・畑屋敷二五三石余・永荒川欠二五五石余。万治三年(一六六〇)免状(鮎河区有文書)は水口代官小堀仁右衛門が給し、九二五石余のうち毛付高は六五八石余、取米は二五四石余。元禄郷帳では高七九八石余。元文五年(一七四〇)の村明細帳(鮎河区有文書)によれば田四〇町七反余・畑屋敷三〇町六反余。


鮎河村
あゆがわむら

[現在地名]平戸市鮎川町あゆがわちよう

古田こた村の南西部に位置し、古田川河口部に臨む。北西佐志さし岳、南西に屏風びようぶ岳がある。鮎河・つじ・佐志の三集落がある。地内の長禄三年(一四五九)銘の五輪塔(緑泥片岩製)に「□叟□公主禅師」などと刻まれる。ほかに「能□順 公禅定尼」とある寛正五年(一四六四)銘の五輪塔、「裕英禅定尼」と記される文明四年(一四七二)銘の五輪塔(地輪)、「源春禅定門」とみえる同一六年の宝篋印塔(基礎)、「宗寿禅定尼」とする同年の五輪塔地輪、「融昌禅定尼」とする同一七年の宝篋印塔基礎、天正一四年(一五八六)銘の宝篋印塔などがあり、いずれも西彼杵にしそのぎ半島の緑泥片岩を石材に製作されたもの。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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