朝日日本歴史人物事典 「鳥羽屋里長(初代)」の解説
鳥羽屋里長(初代)
生年:元文3(1738)
江戸中期の長唄・豊後系浄瑠璃三味線方の家元。上総(千葉県)生まれ。目が不自由で,里都と称した。宝暦4(1754)年初代鳥羽屋三右衛門の門に入り,三味線を学んだのち,天明1(1781)年里長の名で富本節の三味線を勤めた。3年には常磐津節に移って「関の扉」「戻駕」など名曲を生み出したが,寛政3(1791)年常磐津方と不和を生じ,同流の三味線方を退いた。翌年,5代目都一中のために「傾城浅間岳」を作り,中村座に出勤したものの不評で,秋にはまた富本の三味線方に戻っている。6年以降の行動は不明。なお,里長の名前は現在まで7代を数える。また彼の門から「故沢」「三保崎」「富本」などの姓を持つ富本節の三味線方が輩出した。
(根岸正海)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報