日本歴史地名大系 「鶴ヶ岡城跡」の解説
鶴ヶ岡城跡
つるがおかじようあと
天正一六年(一五八八)本庄繁長とその子武藤義勝の庄内侵出の際、当城も焼亡したという。同一八年庄内が越後上杉氏領となると、城番として芋川越前が置かれた(来迎寺年代記)。しかし同年からの太閤検地反対一揆の際、一揆勢に包囲され木戸玄斎の拠る当城は落城したという(筆濃余理)。翌一九年本庄氏・武藤氏は一揆を扇動したとして豊臣秀吉から改易された。同年五月には直江兼続より大宝寺を本城とするための普請が木戸玄斎に命じられており(同年五月二三日「木戸玄斎条書」旧山形県史所収文書)、六月には大宝寺在番の樋口源太左衛門・石倉大膳助・本村監物丞らに兼続から知行が宛行われている(同年六月六日「直江兼続充行状写」別集奥羽文書纂所収文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報