鶴沢清六(読み)つるざわせいろく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六
つるざわせいろく

義太夫(ぎだゆう)節の三味線

[倉田喜弘]

初世

(?―1878)1828年(文政11)初舞台。竹本大隅太夫(おおすみだゆう)や竹本勢見太夫(せみたゆう)を弾いて研鑽(けんさん)を積んだのち、46年(弘化3)に江戸へ下った。73年(明治6)に大阪へ戻って初世豊竹古靭太夫(とよたけこうつぼだゆう)を弾き、76年に引退。2世(1838―1901)も1881年(明治14)に東京へ行き、蠣殻町(かきがらちょう)の師匠として重んじられた。

[倉田喜弘]

3世

(1868―1922)静岡市の生まれ。1884年(明治17)に大阪へ出て、1903年(明治36)に清六を継ぐ。一世の名手喧伝(けんでん)され、3世竹本大隅太夫や2世豊竹古靭太夫(後の山城少掾(やましろのしょうじょう))を弾いた。

[倉田喜弘]

4世

(1889―1960)本名佐藤正哉。東京生まれ。初世清六家の養子となり、1923年(大正12)に4世を襲名する。2世古靭太夫の相三味線として、49年(昭和24)に至るまでの26年間、名コンビをうたわれた。一時文楽(ぶんらく)座を退いたが、復帰後の55年には重要無形文化財保持者に認定された。格調の高い芸風で、昭和期を代表する名人であった。

[倉田喜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六 (つるざわせいろく)

義太夫節の三味線演奏者。(1)初世(1824-78・文政7-明治11) 初名鶴沢徳太郎,1836年(天保7),2世鶴沢清七門下であるのと,本名の万屋清六にちなんで清六と名のる。初世竹本大隅太夫らを弾き,63年(文久3)引退。江戸在住が長かった。(2)2世(1838-1901・天保9-明治34) 初世門下で,鶴沢六三郎から3世徳太郎,そして1880年師名の2世を襲った。初世同様に東京逗留がながかった。(3)3世(1868-1922・明治1-大正11) 本名田中福太郎。静岡出身で,2世鶴沢鶴太郎門下。福太郎,3世鶴太郎,3世叶から3世清六となる。明治・大正期の名人のひとりで,2世豊沢団平亡きあとの3世竹本大隅太夫を弾き,さらに2世古靱太夫(豊竹山城少掾)の相三味線として彼の修業を助けた。(4)4世(1889-1960・明治22-昭和35) 本名佐藤正哉。東京生れ。初名政二郎。鶴沢道八門下だったが5世徳太郎となり,清六をつぐ。2世古靱太夫を弾いていたが1949年絶縁。のち文楽に復帰してからは豊竹松太夫らを弾く。芸術院会員。有吉佐和子の小説《一の糸》のモデル。
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百科事典マイペディア 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六【つるざわせいろく】

義太夫節三味線演奏家の芸名。4世まである。初世〔1824?-1878〕は大坂に生まれ,前名鶴沢徳太郎。1836年鶴沢清六と名乗り,立三味線をひいた。明治初年には名人とうたわれた人。3世〔1868-1922〕は本名田中福太郎。静岡の生れ。後年豊竹山城少掾の三味線をひいた。4世〔1889-1960〕は本名佐藤正哉。東京生れ。1955年人間国宝。

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