鷹取城跡
たかとりじようあと
直方市の頓野・永満寺と赤池町上野との境にある鷹取山(六三三メートル)の山頂にある山城跡。鷹取山城ともいい、高取城ともみえる。永承元年(一〇四六)頃、長谷川吉武の宿老永井宗久が築城したと伝え、正慶二年(一三三三)少弐頼直が、貞和元年(一三四五)筑紫統種が入城し、以後三代にわたって筑紫氏が居城したという(「鞍手郡誌」など)。
鷹取城跡
たかとりじようあと
[現在地名]菊池市竜門 鷹取
染土東方の山稜先端部に位置する。山稜は東から西へ延び、西方足下に染土集落、その西方を迫間川が南流する。菊池十八外城の一といわれる。永徳元年(一三八一)六月二二日、九州探題今川了俊は隈府城を攻めたのち、翌二三日「菊池浦染土城」を攻めた(同年九月日「深堀時弘軍忠状」深堀文書)。この時、後征西将軍宮良成親王が在城していたといわれ、同城は当城のことともいう。
鷹取城跡
たかとりじようあと
[現在地名]朝倉村古谷
古谷地区の西方高取山の山頂にあり、大永三年(一五二三)正岡経貞が居城した。「予陽河野家譜」同年七月条に「府中鷹取山城主正岡紀伊守向背屋形、掠虜近境、恣震猛威、剰頃日一族等頻出入于彼館、有密謀之由巷説矣」とあり、城主経貞に謀反の疑いをもった河野通直は、麾下の来島氏・重見氏らにこれを討たせ、高山左近将監・得重石見守を鷹取城の城番とした。しかし、後年経貞は罪を許されて帰城している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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