日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿地事件」の意味・わかりやすい解説
鹿地事件
かじじけん
1951年(昭和26)11月25日、作家鹿地亘(かじわたる)が在日アメリカ軍諜報(ちょうほう)機関(いわゆるキャノン機関)に拉致(らち)され、不当監禁を受けたことに端を発する事件。神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)付近で行方不明となった鹿地は、1年後の52年12月7日、突然帰宅した。翌日、鹿地は左派社会党猪俣浩三(いのまたこうぞう)代議士に「私は訴える」という声明を託し、キャノン機関に監禁され、アメリカ軍スパイになることを強要された事実を公表した。アメリカ軍は、戦時中、中国大陸で反戦運動をした鹿地の経験を利用しようとしたものの、鹿地に拒否され、アメリカ軍コック山田善二郎らの内部告発によって鹿地の解放に追い込まれたのであった。
この事件は衆議院法務委員会で取り上げられ、アメリカ軍の不法行為、人権蹂躙(じゅうりん)として問題となった。アメリカ軍側は鹿地を留置した事実を認めつつも、それは短期間であり、講和条約発効後は日本人拘禁の例はないとして、その不法性を否定した。アメリカ軍諜報機関の横暴に対する国民の批判が高まるなかで、三橋正雄という人物がアメリカ・ソ連の二重スパイとして自首(12月10日)、鹿地はソ連のスパイであったと自供した。鹿地はこれを否定し、衆議院法務委員会で両者の対決が行われるなどしたが(53年8月)、結局、鹿地は電波法違反で起訴され、人権問題はうやむやとなった。鹿地の無罪確定は69年6月であった。
[小田部雄次]
『「三橋・鹿地事件」(田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第2巻』所収・1980・第一法規出版)』▽『木村庸太郎著「鹿地亘事件」(『朝日ブックレット6 記者の証言』所収・1983・朝日新聞社)』