鹿地 亘
カジ ワタル
昭和期の小説家,評論家
- 生年
- 明治36(1903)年5月1日
- 没年
- 昭和57(1982)年7月26日
- 出生地
- 大分県西国東郡香々地町
- 本名
- 瀬口 貢(セグチ ミツギ)
- 学歴〔年〕
- 東京帝国大学国文科卒,東京帝国大学大学院〔昭和2年〕博士課程修了
- 経歴
- 学生時代からプロレタリア文学運動に加わり、昭和5年「労働日記と靴」などを書き小説家として活躍。またナップの機関紙「戦旗」に評論や童話も書く。7年日本共産党に入党。9年治安維持法違反で検挙されたが獄中で転向し同年出獄。11年中国に渡り、戦時中、重慶で日本人民反戦同盟を結成、日本兵の投降工作や捕虜教育を担当。戦後帰国、神奈川県藤沢で肺結核療養中の26年11月、在日米軍謀報機関(キャノン機関)に拉致され、スパイの追及を受け監禁された(鹿地亘事件)。1年後釈放。また28年11月“米ソ二重スパイ事件”の共犯容疑で電波法違反で起訴されたが、44年無罪が確定。著書に「日本兵士の反戦運動」「謀略の告白」「もう空はなく地はなく」、小説「平和村記」「脱出」「火の如く風の如く」、回想「自伝的な文学史」、「鹿地亘作品集」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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鹿地亘
かじわたる
(1903―1982)
小説家、評論家。本名瀬口貢。大分県生まれ。東京帝国大学在学中、新人会に加入、農民争議などの実際運動も体験。福本イズムの強い影響を受け、『所謂(いわゆる)社会主義文芸を克服せよ』(1927)、『小市民性の跳梁(ちょうりょう)』(1928)ほかの先鋭な評論を書いた。その後コップ再建の責任者としてプロレタリア文学運動の退却期に方向転換を模索した。1934年(昭和9)の検挙後転向、中国へ脱出、反戦同盟の組織化に活動。第二次世界大戦後「鹿地事件」に遭遇した。短編集『労働日記と靴』(1930)、『自伝的な文学史』(1959)、『回想記「抗日戦争」のなかで』(1978~80)ほかの著書がある。
[大塚 博]
『『自伝的な文学史』(1959・三一書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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鹿地亘【かじわたる】
小説家,評論家。大分県生れ。本名,瀬口貢。東大卒。在学中から活動をはじめ,日本プロレタリア芸術連盟,ナップ,日本プロレタリア作家同盟に参加,プロレタリア文学運動の中心人物として活躍。日中戦争開始後,中国で反戦同盟を組織。帰国後の1946年11月,米軍キャノン機関に拉致され,約1年間監禁された(鹿地事件)。戦後は,日中友好に尽力した。小説に《労働日記と靴》《脱出》《火の如く風の如く》,回想に《自伝的な文学史》など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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鹿地亘 かじ-わたる
1903-1982 昭和時代の小説家,評論家。
明治36年5月1日生まれ。東京帝大在学中にプロレタリア文学運動に参加し,昭和4年日本プロレタリア作家同盟を結成。11年上海へわたり,日中戦争中,重慶で日本人民反戦同盟を組織。26年米軍機関による監禁事件にあった(鹿地事件)。昭和57年7月26日死去。79歳。大分県出身。本名は瀬口貢。著作に「労働日記と靴」「自伝的な文学史」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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鹿地 亘 (かぢ わたる)
生年月日:1903年5月1日
昭和時代の小説家;評論家
1982年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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