黒崎宿(読み)くろさきしゆく

日本歴史地名大系 「黒崎宿」の解説

黒崎宿
くろさきしゆく

長崎街道宿駅で、黒崎駅ともいう。筑前六宿の一。前宿の豊前小倉宿から二里三四町、次宿の木屋瀬こやのせ宿までは二里三一町(「御国中宿駅人馬賃銭増一件」吉田家文書)。当地の黒崎湊は長門下関や上方方面への渡海船の湊であり、水陸交通の要衝として御笠みかさ原田はるだ宿(現筑紫野市)などとともに旅人改所が置かれている(新訂黒田家譜)。基本的には郡方支配であったが、宝暦年中(一七五一―六四)一時的に浦方支配になるなど、浦方の要素も強かった(「郡役所記録」県史資料四)。慶長年中(一五九六―一六一五)黒崎城が築城されると、城主として入部した井上之房は同城の山下町を整備、近隣の藤田ふじた村・熊手くまで村の各本村の民戸を山下に移してそれぞれ藤田町熊手町とし、併せて従来は鳴水なるみず村から市瀬いちのせ村へと抜けていた街道(長崎街道)を山下を通るようにして、藤田・熊手両町に宿駅の業務を負担させた(続風土記拾遺)。一国一城令で黒崎城は破却。その後、城外郭の堀は埋められ、堀跡に構口(東構口)が設けられるなど、当地は山下町から宿場町への転換が進められた。寛永年間(一六二四―四四)にはそれまで藤田村の田圃であった地を埋立てて町が町立てされ、当宿は藤田町・田町・熊手町の三町構成となり、この三町を総称して黒崎ともよんだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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