須賀神社(読み)すがじんじや

日本歴史地名大系 「須賀神社」の解説

須賀神社
すがじんじや

[現在地名]左京区聖護院円頓美町

聖護しようご院の南に位置する。もと西天王にしてんのう社と称し、岡崎おかざき神社(東天王社)と相対して一対をなした。祭神は須佐之男すさのお命・櫛稲田比売くしなだひめ命・久那斗くなど神・八衢比古やちまたひこ神・八衢比売やちまたひめ神。社伝によれば、永治二年(一一四二)美福門院が建立した歓喜光かんきこう(現左京区)の鎮守として創祀されたという。当初の社地は平安神宮蒼竜そうりゆう(現左京区岡崎西天王町)北東の西天王塚辺りと伝えるが、元弘二年(一三三二)の兵乱で吉田神楽岡よしだかぐらおか(現左京区)に移されと伝える。天和二年(一六八二)の「雍州府志」には、

<資料は省略されています>

と記され、当社の祭礼・故事および吉田神楽岡の木瓜こうり神社の傍らに鎮座していたことが明らかとなる。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]田辺町打田 宮本

祭神は須佐之男すさのお命で、相殿に猿田彦さるたひこ命と大国主おおくにぬし命を祀る。旧村社。東面する本殿(府指定文化財)の向かって右脇に摂社の春日社、左脇に摂社の熊野社がある。境内北には末社の三社、すなわち中央に天御中主あめのみなかぬし社、その右脇に高皇産霊たかみむすひ社、左に神皇産霊かんみむすひ社がある。本社の北東に近接する田辺町西明さいみよう寺は須賀神社の神宮寺であったと伝える。明治一六年(一八八三)の綴喜郡神社明細帳によれば、もと「牛頭天皇」と称したが、明治維新後に現社号になったとある。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]小城町大字松尾字吉田

小城町の北方、祇園ぎおん川を前にしたじよう山の西端に鎮座する。由緒記によれば、延暦二二年(八〇三)の勧請といい、小城・佐賀・杵島きしま三郡の宗廟の神社とする。祭神は須佐之男命(牛頭天王)。旧県社。

最初は「清祠すがし」といっていたが、元茂公御年譜によれば、正和五年(一三一六)千葉胤貞が下総国より小城に下向した時、京都の祇園社(現八坂神社)の分霊を奉移し、清祠のあとに祀り祇園社と称した。胤貞の子胤泰は祇園社の東方城山に城を築き牛頭ごず(牛頸城・千葉城)と称した。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]南部川村西本庄 宮

南流する南部川沿いの小高い地に鎮座。祭神は素戔嗚すさのお尊・稲田姫いなだひめ命・五男三女ごなんさんによ神・八柱御子やはしらのみこ神。旧郷社。古くは御霊ごりよう宮と称したが明治元年(一八六八)現社名となった。社伝によれば、年月は不詳だが神祇大副吉田兼延の三男宗沢が勅を奉じて京都御霊宮(現八坂神社)より勧請したのに始まるといい、宗沢は数名の祠官とともに当地にとどまり社務をつかさどったという。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]甘木市甘木

甘木市街の東部、七日なぬか町にある。素盞嗚尊などを祀り、旧村社。社伝によると、正和―元応年中(一三一二―二一)弁円の法弟仏印は豊後国へ向かう途次、当地の安長あんちよう寺に宿泊して病を得たが、牛頭天王の擁護で回復、奉賛の志をたてた仏印は、正殿に牛頭天王、左右に稲田姫命・八王子神を祀る一社を建立、弟子の宗晋を神祠の傍に建てた寺に置いて奉祀させたのが当社の草創という。同寺は祇園寺と号し、本尊の釈迦如来は高さ五尺余の木造立像で、最澄の作と伝えていた(現在は七日町の観音堂に安置)


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]沼田市 中町

主神は素戔嗚命。かつては牛頭天王を祀り天王様とよばれたが、明治元年(一八六八)現社名に改める。沼須ぬます村の市神天王様を移したという下之しもの鍛冶町かじまち通辻北にあった天王宮を、慶長一七年(一六一二)現在地に移転(沼田町史)、現在も沼須の祭礼は沼田と同日に行われる。真田氏時代城下絵図では、中町なかまち通中ほど南側の現在地に「天王社」とみえるが、天台宗金剛こんごう院の一角にあたる。当社の祇園祭は遠く佐位さいしま(現佐波郡境町)の民謡でも「蚕おわれば沼田の城下へ連れてゆく」と歌われるほど古くから盛んであった。真田氏時代から検断が祭礼を統率し(「沼田町記」安永二年記録)、城下中を神輿が巡ったが、文久二年(一八六二)には麻疹が諸国に流行したので、疫病払いに例祭日外にも神輿を順行したいと申出ている(「天王宮御輿順行願」戸鹿野町有文書)


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]直方市下境

福地ふくち川との合流点付近の彦山川下流右岸に位置する。祭神は素盞嗚命で、江戸時代以前は祇園社とよばれた。旧郷社。古くは上境かみざかい村福地社(福智社)とともに現在地の南東三〇間ほどの中境にあったが、宝永三年(一七〇六)当社が現在地に遷座して別社となったという(続風土記拾遺)。社伝によれば、舒明天皇の頃建立され、貞観一五年(八七三)祇園社と改称したという。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]須崎市大谷

大谷おおたにの集落中央部字みや西にしにあり、建速須佐之男命を祀る。旧郷社。古くから野見のみ・大谷の総鎮守で、津野氏の勧請と伝える。「蠧簡集木屑」に「奉棟上於天王宮造(ママ)之土州高岡郡津野野見郷大谷也 天正三年霜月廿五日 御地頭俊光野見名本五郎衛門□大谷名本三郎衛門□」の棟札銘がみえ、天王てんのう宮と称し天正三年(一五七五)には鎮座していたことが確認できる。同一六年の津野野見勢井地検帳には神田九反二二代一歩が記され、神主・などの神職がいたことがわかる。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]西浅井町菅浦

祭神は淳仁天皇。天平宝字三年(七五九)淳仁天皇が当地に保良ほら宮を営んだという所伝、同八年恵美押勝の乱後に同天皇が隠棲したという伝説がある。もと保良神社・菅浦大明神とも称した。たにに御陵塚、内場うちばに后妃らの墳墓、同天皇の供養塔、蹴鞠の場跡、射弓の場跡、宮居跡などの伝承地がある。当社の神像は天皇の自刻ともいう。同天皇没後五〇年ごとに法要が営まれ、文久三年(一八六三)一千百年法要を勤めた(以上「伊香郡志」)


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]温泉町宮脇

宮脇みやわき集落の上手にある。現在の祭神は道中貴命であるが、かつては素盞嗚尊を祀っていたと思われる(穂積家文書など)。旧村社。また古くはすが宮・菅大明神などともいった。「延喜式」神名帳にみえる二方ふたかた郡の「スカノ神社」に比定される。貞観一〇年(八六八)閏一二月二一日但馬国の「菅神」が正六位上から従五位下に神階を昇叙されているが(三代実録)、この菅神は当社のこととする説もある。


須賀神社
すがじんじや

[現在地名]小山市宮本町一丁目

おもい川左岸にあり、祭神は素盞嗚命・大己貴命・誉田別命。旧郷社。もと牛頭天王社・祇園社ともよばれ、俗に天王様とよばれる。藤原秀郷は平将門を討ち、その報賽のため京都の祇園社を勧請、平治(一一五九―六〇)の頃現在地に移ったという。小山氏の崇敬が厚く小山六十六郷の惣鎮守であった。慶長五年(一六〇〇)徳川家康は当社に参籠して関ヶ原の戦勝を祈願、同一五年には本多正純から立木たつぎ村二〇石・下石塚しもいしづか村一五石・喜沢きざわ村一五石の計五〇石を寄進された(「本多正純寄進状」当社蔵など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「須賀神社」の解説

須賀神社

(東京都練馬区平和台1-36)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

須賀神社

(東京都練馬区向山3-13)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「須賀神社」の解説

須賀神社

(滋賀県伊香郡西浅井町)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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