黒羽城跡(読み)くろばねじようあと

日本歴史地名大系 「黒羽城跡」の解説

黒羽城跡
くろばねじようあと

[現在地名]黒羽町黒羽田町

那珂川松葉まつば川の合流点北方、八溝やみぞ山地から続く伊王野いおうの・黒羽支丘突端部にある。標高約二〇〇メートル、東西は急崖をなし那珂川からの比高約四〇メートルの、南北に細長く延びる天然の要害に築かれている。規模は南北約一五〇〇メートル・東西約二五〇メートル、面積は約三七・五ヘクタール、本丸・中の丸・北の丸などの内城と、三の丸・帯郭などの外城からなる複郭の居館形式で、外郭に北は上城や八幡はちまん館、南に大宿だいじゆく風呂口ふろぐち郭が配される。石垣は少なく、土塁と堀で郭が形成されている。天保八年(一八三七)小泉斐の描いた鳥瞰図(黒羽町蔵)によれば、黒羽田くろばねた町より北へ折れると郭内大宿となり、坂道を上って城へ向かう。大宿には家臣屋敷地に混じって新善光しんぜんこう寺があった。さらに大雄だいおう寺を左手に見て歩むとくろ(大門)があり、宝寿ほうじゆ院・稲荷を過ぎると会所に出る。本城へは西九鶴門を通過して入り、本丸と北の丸(北城)がある。本城から北坂きたさか門への道には家臣の屋敷地が立並び、帰一きいち寺が確認できる。北坂門は河原かわら町・堀之内ほりのうち村から本城に至る道に設けられ、同門の奥には鎮国ちんこく社が位置していた。当城は黒埴くろはに城・鶴舞つるまい城・九鶴城などの別称があるとされる。

天正四年(一五七六)大関高増は、那珂川対岸の余瀬の白旗よぜのしらはた城から当城に本拠を移したと伝える。以後黒羽藩大関氏の本城であった。築城の時期は不明だが、大関家系図(黒羽町蔵)に文明一七年(一四八五)大関増雄が黒羽城で没したと記され、室町期にさかのぼるとも考えられる。大関氏は本姓丹治氏で武蔵丹党の出身とも(大関家系図)、常陸国大関おおぜき(現茨城県下館市)の土豪とも伝えられ(下野国誌)、戦国期には那須七騎の一として那須氏重臣となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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