忌野清志郎(読み)イマワノキヨシロウ

デジタル大辞泉 「忌野清志郎」の意味・読み・例文・類語

いまわの‐きよしろう〔いまはのきよシラウ〕【忌野清志郎】

[1951~2009]ロックシンガー。東京の生まれ。本名、栗原清志きよし。ロックバンドRCサクセションの中心的存在として活躍したほか、他バンドやソロ活動においても多数のヒット曲を生み出した。代表作スローバラード」「雨あがりの夜空に」など。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「忌野清志郎」の解説

忌野 清志郎
イマワノ キヨシロウ


職業
ミュージシャン

本名
栗原 清志(クリハラ キヨシ)

グループ名
グループ名=RCサクセション(アールシーサクセション)

生年月日
昭和26年 4月2日

出生地
東京都 中野区

出身地
東京都 国立市

学歴
日野高〔昭和45年〕卒

経歴
昭和41年同級生の小林和生(ベース)、破廉ケンチ(ギター)とザ・クローバーを結成。42年上級生を引き入れてリメインダーズ・オブ・ザ・クローバーとして再開、43年破廉が復帰してリメインダーズ・オブ・ザ・クローバーズ・サクセションに改名、44年それを略したRCサクセションの名前でTBSテレビ「ヤング720」に出演。同年東芝主催のカレッジ・ポップス・コンサートオーディションに合格し、45年シングル「宝くじは買わない」でレコードデビュー。47年都立日野高校時代の恩師である美術教師をモデルにしたシングル「僕の好きな先生」がヒット。同年ファーストアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。48年友人の井上陽水と「帰れない二人」「待ちぼうけ」を共作し、これらが収録された陽水のアルバム「氷の世界」は、アルバムとして日本初のミリオンセラーとなった。その後、所属事務所とのトラブルを抱えバンドとしては不遇の時代が続き、51年に発表したサードアルバム「シングル・マン」もすぐに廃盤となり、52年破廉が脱退。53年仲井戸麗市(ギター)と新井田耕造(ドラムス)が加入すると、それまでのフォーク路線からエレクトリックなロック・サウンドに転じ、パワフルな歌唱、逆立てた髪の毛と派手な化粧によるライブパフォーマンスは観客を熱狂させ、瞬く間にカリスマ的な人気を獲得。“ベイベー”“愛しあってるかい?”といった観客への呼びかけは一世を風靡した。55年シングル「雨上がりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」が大ヒット、56年には初の日本武道館単独公演を開催。57年YMOに在籍していた坂本龍一資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」を共作。人気の絶頂にいたグループのメンバー同士であり、どぎついメイクを施した男同士がキスをするプロモーションビデオが話題を呼んだ他、テレビの音楽番組に出演した際にカメラにガムを吐き、番組に苦情の電話が殺到した。62年初のソロアルバム「RAZOR SHARP」をリリース。平成3年RCサクセションの活動を休止。シャイで照れ屋な性格ながら、音楽では一貫して社会的なメッセージを込めた、風刺的な歌詞のロックを歌い続け、世の中のタブーに挑戦。特に、昭和63年RCサクセションとして制作したカバーアルバム「COVERS」で、シングルカットも予定されていたエルビス・プレスリーのカバー「ラブ・ミー・テンダー」を反原発ソングにしたことが発売元・東芝EMIの忌避に触れ“素晴しすぎて発売出来ません”と発売中止になったことは大きな話題となり、レコード会社を変えて発売(話題性も手伝ってバンド初のチャート1位を獲得した)。同時期には“忌野にそっくりな人物”が率いるザ・タイマーズという覆面バンドでも活動、発売中止の原因となった「ラブ・ミー・テンダー」などを歌い、テレビの生放送で同曲やザ・タイマーズの曲を放送自粛にしたFM東京を批判する曲を歌った。平成11年忌野清志郎リトル・スクリーミング・レビュー名義のアルバム「冬の十字架」は「君が代」のパンクロックバージョンを収録していたためレコード会社が難色を示し、自主制作盤としての発売となった。RCサクセション以外にも、建設会社のCMに起用された「パパの歌」がヒットした浜口茂外也とのトーサンズや、坂本冬美、細野晴臣とのHIS、及川光博とのミツキヨなどのユニット、23s、スクリーミング・レビュー、ラフィータフィーといったバンドでも活動し、イベント限定などを含めると50以上のユニットで活動した。また、5年岩松了監督作品「お墓と離婚」で俳優としてもデビューし、以降、自身の全国ツアーを追った映画「不確かなメロディー」や、映画「カタクリ家の幸福」「チキン・ハート」「恋の門」「サヨナラCOLOR」「妖怪大戦争」、テレビドラマ「ボクの就職」「ギフト」「野ブタ。をプロデュース」などに出演。絵画にも才能を示し、14年には環境保護を訴える絵本「ブーアの森」の原画を担当。50歳を過ぎてからは自転車を愛用し、17年愛用の自転車「オレンジ号」が路上で盗難に遭い、ホームページで返却を呼びかけたこともある。同年自身のホームページで咽頭癌を公表し、以後1年以上にわたり休養。19年ジョン・レノン・スーパー・ライブで復帰、20年には日本武道館で完全復活祭を開催し、圧倒的なパフォーマンスで完全復活を印象づけたが、21年58歳で亡くなった。反骨精神と愛敬を併せ持った、日本を代表するロックスターであり、多くのミュージシャンに影響を与えた。他の代表曲に「スローバラード」「ボスしけてるぜ」「サマーツアー」「ベイビー!逃げるんだ。」などがある。

受賞
日本レコード大賞(優秀アルバム賞 第32回)〔平成2年〕「BABY A GO GO」,メンフィス市名誉市民〔平成4年〕,おおさか映画祭音楽賞(第20回 平6年度),日本アカデミー賞音楽賞(第18回 平6年度)「119」,日本レコード大賞(特別功労賞 第51回)〔平成21年〕

没年月日
平成21年 5月2日 (2009年)

伝記
忌野清志郎ぼくの好きなキヨシロー忌野清志郎の世界Dreams to Remember―清志郎が教えてくれたことさらば清志郎―ロッカー・忌野清志郎の思い出愛しあってるかいDELUXE EDITION RCサクセション忌〈2〉忌野清志郎は死なない!対談の本―ロックンロールから枝豆まで清志郎を聴こうぜ!忌野清志郎ロックな生き方清志郎ポップス イン ジャパン―“ロック”を超えるミュージシャンたち遊びじゃないんだっ―RCサクセションGOTTA(ガッタ)!忌野清志郎愛しあってるかい―RCサクセションロックは語れない ベイビィズ音楽出版 監修泉谷 しげる,加奈崎 芳太郎 著今井 智子 著服部 翔太 著第三書館編集部 編細野 晴臣 著原田 和典 著ベイビィズ音楽出版 監修田代 洋一 著岡部 好 写真萩原 健太 著連野 城太郎 著月刊宝島 編渋谷 陽一 著(発行元 TOKYO FM出版WAVE出版ぴあ飛鳥新社シーエイチシー,コアラブックス〔発売〕宝島社第三書館マーブルトロン,中央公論新社〔発売〕主婦と生活社TOKYO FM出版バックステージカンパニー情報センター出版局新潮社マガジンハウス角川書店JICC出版局新潮社 ’10’09’09’09’09’09’09’07’06’06’05’02’92’90’89’88’86発行)

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百科事典マイペディア 「忌野清志郎」の意味・わかりやすい解説

忌野清志郎【いまわのきよしろう】

ロック歌手,作曲家,作詞家。東京都中野区生まれ国分寺市育ち。1968年に結成したロックバンドRCサクセションを中心に活動,70年代はじめのフォーク調から次第にロック,R&B的色彩を強め,熱狂的な支持者を獲得した。《スローバラード》(1976年),《雨上がりの夜空に》(1980年),《トランジスタ・ラジオ》(1980年)などがヒットし,パンクロック風の演奏スタイルとあいまって後進のロック歌手やバンドに大きな影響を与えた。反原発のアルバムや〈君が代〉を編曲したアルバムが発売中止になるなど,社会問題や政治問題をロックに取り込む反骨の姿勢を貫いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「忌野清志郎」の解説

忌野清志郎 いまわの-きよしろう

1951-2009 昭和後期-平成時代のミュージシャン。
昭和26年4月2日生まれ。昭和42年フォーク-トリオRCサクセションを結成,45年「宝くじは買わない」でレコードデビュー。のちメンバー交替をへてロックバンドとして活動。「ぼくの好きな先生」「スローバラード」「雨あがりの夜空に」「い・け・な・いルージュマジック」などのヒット曲がある。平成21年5月2日死去。58歳。東京出身。日野高卒。本名は栗原清志。

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367日誕生日大事典 「忌野清志郎」の解説

忌野 清志郎 (いまわの きよしろう)

生年月日:1951年4月2日
昭和時代;平成時代のロック歌手

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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