イスラエルの政治家。イスラエル中部クファル・マラル村に生まれる。イスラエル建国前の1942年、独立国家樹立を目ざす武装組織ハガナ(後の国軍)に入隊。第1次~第4次のすべての中東戦争に師団長などとして参戦し、多くの軍功をあげる。1973年の国会選挙に出馬して当選、政治家に転身した。1982年のレバノン侵攻を国防相として指揮、アラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)をチュニスに放逐した。この際、友軍のキリスト教徒民兵がパレスチナ難民キャンプで行った虐殺を「黙認」したことにより、パレスチナ人からは「殺人者」とよばれる。
1996年、ネタニヤフ政権の国家基盤相。1998年、外相。1999年には右派リクード党首に選ばれた。2000年9月、イスラム教徒が管理するエルサレム旧市街のユダヤ、イスラム両教の聖域「神殿の丘」(イスラム教徒側の呼称は「ハラム・アッシャリフ」)を訪問しパレスチナ騒乱を招いたが、徹底した治安対策を訴え、2001年2月の首相公選で労働党のバラクを破り首相に就任した。2005年9月に占領地ガザからのイスラエル軍撤退を実現する一方、ヨルダン川西岸については主要なユダヤ人入植地を維持し、イスラエル本土との境界から西岸の東側に食い込む分離フェンスを建設するなど、強硬策を推進していた。2005年11月、ガザ撤退をめぐるリクード内の路線対立から同党を離脱、新党カディマ結成を表明した。2006年1月脳卒中に倒れ、政界を引退。
[相原 清]
『キマーリング,バールフ著、脇浜義明訳『ポリティサイド―アリエル・シャロンの対パレスチナ人戦争』(2004・柘植書房新社)』
フランスのモラリスト。弁護士ののち僧職につき、説教家としての才能を発揮した。『キリスト教講話』(1589~1604)や『三つの真理』(1593)は、反宗教改革の立場によるキリスト教護教論である。後代に懐疑思想家と考えられたのは、その著書『知恵について』(1601)による。これは、40歳ごろに友人となったモンテーニュの影響のもとにストア哲学を体系的に整理したもので、ストア哲学と懐疑論が17世紀前半のフランスに受け入れられる素地をつくる役目を果たした。
[香川知晶 2015年5月19日]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
フランスのカトリックの宗教思想家,モラリスト。パリに生まれ,パリ,モンペリエで法律を学んだのち弁護士として立ったが,1576年以降説教家としてフランス各地を巡って名声を博し,主としてボルドー市にあった80年代にはモンテーニュと親交を結び,その相対主義的な人間考察に多くを学ぶ。96年にパリにもどり,没。著作にはいくつかの論説集,説教集があるが,主著のひとつ《三つの真理》(1593)は,無神論者にたいして宗教の必要性を,異教徒にたいしてキリスト教の真実性を,またプロテスタントにたいしてカトリック教会の正統性を説くキリスト教弁証論であり,これは国王アンリ4世の旧教への改宗(1593)による宗教戦争の収束と王権の確立に同調する。また代表的著作《知恵について》(1601)は,モンテーニュから古代世界の事例を借用しつつ,懐疑主義的な知的探索の方法をも模倣して,人間の情念,徳性,英知等について分析,分類,体系化を試みるものである。これは,その師にひきつづき,人間の性質,行動について省察を加えその表現化に工夫をこらす〈モラリスト〉の文学を支える仕事であるとともに,やがて確立されるべき合理主義的な世界理解の方式を生み出す基礎作業であったとも見なされる。17世紀前半期におけるこの書物の多数の重版と翻訳は,時流のそのような傾向を物語るものであろう。
執筆者:荒木 昭太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新