チエール(読み)ちえーる(英語表記)Marie Joseph Louis Adolphe Thiers

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チエール」の意味・わかりやすい解説

チエール
ちえーる
Marie Joseph Louis Adolphe Thiers
(1797―1877)

フランスの政治家、歴史家。マルセイユに生まれる。エクサン・プロバンスで法律を学び、歴史家のミニェと知り合う。1821年パリに上り、『コンスティテュショネル』紙に政治・歴史論文を寄稿。1823年から1827年にかけて立憲君主制の立場から『フランス革命史』(10巻)を発表した。本書は、豊富な史料に基づいているとして好評を博し、1866年までに16版を重ね、彼の文名を高めた。

 チエールは、復古王政末期にミニェ、A・カレルとともに『ナショナル』紙を創刊し、自由主義の立場から反復古王政の論陣を張った。1830年の7月革命成功後、内相、農商務相を歴任し、1836年から1840年にかけて首相兼外相に任命されるなど政界の中心人物になった。内政面では正統王朝派と共和派の反政府運動を厳しく取り締まり、外交面ではフランスの威信回復をねらってスペインへの介入やムハンマド・アリー擁立などの積極外交を進めたが、かえってそれが失脚の原因になった。1840年代には、O・バロと組んで反ギゾーの運動を進めるとともに、全20巻の『統領政府帝政の歴史』(1843~1862)を執筆した。1848年2月23日に首相に就任したが、翌日の二月革命によってその内閣流産に終わった。第二共和政下で憲法制定議会議員に選ばれ、所有権擁護、反社会主義の立場から、秩序派の中心人物として活躍。1851年のルイ・ナポレオンのクーデター後はスイスに亡命し、1863年に立法院議員に選ばれるまで、政界から遠のいた。プロイセン・フランス戦争にフランスが敗れた1871年2月、行政長官に返り咲き、パリ・コミューンを容赦なく粉砕した。同年8月大統領に就任して、ドイツとの賠償問題を解決し、第三共和政の基礎を固めた。1873年、急進派ガンベッタ王党派双方から攻撃を受けて退陣した。彼は、不死鳥のような長い政治生命をもった、保守的なブルジョア共和派の政治家であった。

[阪上 孝]

『中木康夫著『フランス政治史』上中(1975・未来社)』

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