プロバンス(読み)ぷろばんす(英語表記)Provence

翻訳|Provence

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロバンス」の意味・わかりやすい解説

プロバンス
ぷろばんす
Provence

フランス南東部の歴史的地域名、旧州名。ローヌ川下流からアルプス山脈に至る地域で、現在のブーシュ・デュ・ローヌ、バール、アルプ・ド・オート・プロバンス、アルプ・マリティーム、ボークリューズの5県にあたる。ローヌ川河口のカマルグ地方を除き、大部分は山がちである。山中ではヒツジの飼育が盛んで、よく発達した河谷にはブドウ、オリーブなどが栽培され、地中海海岸部では温暖な気候を利用して野菜、果樹、花卉(かき)の集約的な農業が行われている。デュランス川とベルドン川流域は灌漑(かんがい)水利が発達している。海岸地帯はコート・ダジュールを中心に観光・保養都市が連続し、工業はマルセイユ周辺に発達している。古くからギリシア、ローマの影響を受け、その遺跡が多い。主要都市はマルセイユ、トゥーロンニース、エクサン・プロバンス、アルルアビニョンなど。

[青木伸好]

歴史

ローマがガリア征服に際してこの地を最初のプロウィンキア(属州)としたのが地名の由来である。この地方は、帰属などをめぐって特異な発展過程をたどり、プロバンス語オック語のプロバンス方言)をもち、習俗もイタリア、スペインと共通する面があるなどの特徴をもつ。

 紀元前7世紀よりギリシア人が植民し、ローマ時代にも繁栄した。のちフランク王国、ロタールのイタリア王国、ブルゴーニュ王国に属したが、973年ごろイスラム教徒を撃退したウィリアム解放伯がプロバンス伯の始祖となる。11世紀神聖ローマ帝国に属したこともあり、12世紀には婚姻によってスペインのバルセロナ伯の支配を受けた。13世紀にさらに婚姻によりアンジュー伯領に加えられ、シチリア王位についた同伯家がアラゴン家によって王位を追われてプロバンスに帰ったのち、遺贈の形でプロバンス伯領はフランス王ルイ11世に譲られた(1481)。この間12世紀ごろフランス風の封建制が成立していくが、一方十字軍遠征を契機として都市の復興も著しかった。1348年にはアビニョンが教皇クレメンス6世に売却されている。下ってフランス革命下、山岳派独裁の国民公会時代、この地がジロンド派の拠点として公会に反抗したが、1793年マルセイユおよびトゥーロンの陥落でこの抵抗に終止符が打たれた。

[石原 司]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロバンス」の意味・わかりやすい解説

プロバンス
Provence

フランス南東部のローヌ川,地中海岸,アルプスに囲まれる地方。旧州名。1790年旧プロバンス州はブーシュデュローヌ県バール県,バスザルプ県(→アルプドオートプロバンス県)の 3県に分割。今日ではボークリューズ県アルプマリティム県を含む。地中海気候の保養地として知られる。古くからギリシアの影響が及び地中海沿岸にマルセイユニースアンティーブなどギリシア人植民都市が成立し,次いでローマの属州となった。843年ベルダン条約でロタールの領地に含まれたが,さらに分立して 855年プロバンス王国となった。プロバンス王国はやがてブルゴーニュ王国と合わせてアルル王国とも呼ばれた。1032年以後プロバンス王の称号はドイツ皇帝が兼ねることになったが,実質的な支配権はイスラム教徒の海上からの侵攻を撃退したプロバンス伯が掌握した。初めツールーズ伯,次いでバルセロナ伯がこれを兼ねたが,1246年フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが取得して地中海政策の根拠地としてのち,アンジュー家の支配下に独自の制度が発達した。なかでもルネ1世は名君としてこの地方の記憶に定着している。1482年フランス王が伯を兼ね,絶対王政期を通じて政治制度のフランス化が進められ,フランス革命によって最終的にフランスの地方行政のなかに編入された。産業としては後背山地を中心とした牧羊,斜面や低地のオリーブ,ブドウ栽培,コートダジュール(リビエラ海岸)の観光などのほか,近年ではマルセイユ近郊フォスのような総合的臨海工業地帯の化学工業なども発達している。

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