翻訳|Provence
フランス南東部の地方(旧州名)。西はローヌ川,南は地中海,東はイタリア国境のアルプス山脈によってくぎられる。現在の行政区画では,ブーシュ・デュ・ローヌ,ボークリューズ,アルプ・ド・オート・プロバンス,バル,アルプ・マリティムの5県からなる。
範域の多くは,アルプス山脈,プレ・アルプス山脈によっておおわれ,山地は海岸部にまで迫っている。ローヌ川沿岸は平野となっているが,河口付近ではクローの荒地およびカマルグの湿地となっている。気候は夏は強い日射によって暑く,冬は暖かい。年平均気温は15℃,日照時間は年間3000時間に及び,フランスでは最も高温な地方にあたる。地中海式気候の冬雨地帯で,年降雨量は約600mmにすぎないが,ときに集中的な豪雨によって,河川の氾濫を招く。また,冬季にミストラルとよぶ北方からの冷たい強風が吹き,低温や降雪がみられ,風景が一変することがある。地中海的植生におおわれ,ことに,イトスギ,マツ(アレッポマツ),コルクガシなどの樹木,オリーブほかの果樹,ミモザ,ラベンダー,アカネなどの野草,栽培植物が,プロバンス独特の景観を生み出している。
先史時代には,ヨーロッパ青銅器文明の一環をなし,地中海から民族系統の不詳な,リグリア人,イベリア人などが到来した。前1千年紀にいたり,地中海岸にはフェニキア人植民市がつくられ,前7世紀以降には,ギリシア人植民市が生まれた。そのうちでもマッシリア(現,マルセイユ),ニース,アンティーブが繁栄した。この時代には北方からケルト人(ガリア人)が侵入し,先住のリグリア人との混交もみられた。ガリア人の圧迫にあって,ギリシア系植民市は前2世紀後半,ローマの救援を求めた。イタリアを統合し,ポエニ戦争に勝利したばかりのローマは,前125年マッシリアを,前122年エクサン・プロバンスを,ガリア人の圧迫から解放し,着々とプロバンス一帯を保護下においていった。前118年,この地方はローマの属州となったが,ローマにとってはアルプス以遠で最初の属州ガリア・トランサルピナとなった。プロバンスの名称は〈属州〉のラテン語provinciaに由来する。ただし,この属州は現今のラングドックをも含む広大なものである。これ以後,カエサル時代の曲折をへて,1世紀のアウグストゥス時代にいたって属州社会は安定した。ローマ文化が盛んに移植され,都市の公共建築物が出現した。現存するアルルの円形競技場,半円形劇場,オランジュの劇場,ポン・デュ・ガールの石造水道橋などに,その最盛時をしのぶことができる。ローマ帝政末期以降,ゲルマン諸部族の侵入が続き,東ゴート,ブルグンド,西ゴート,フランク諸族が,通過もしくは定着した。この混乱期にあっても,マルセイユは交易港としての地位を保ち,アルルはキリスト教世界の一中心地として,宗教会議を開催するなど,ローマ文明の継承者としての地位を守った。
6世紀前半から9世紀中葉まで,プロバンスはフランク王国,およびロタールの王国の下にあったが,855年,ロタールの子シャルルが,プロバンス王国を建設した。のちに10世紀にブルゴーニュ王国として統合された。しかし,その前後の時代には,イスラム勢力の南方からの進出が断続的に行われ,全体として荒廃を余儀なくされた。973年までに,ギヨーム〈解放者〉によってイスラム勢力は一掃され,彼はプロバンス伯となった。その伯領は1032年には,神聖ローマ帝国に服属したが,実質上の独立は保たれた。同伯位は12世紀には,トゥールーズ伯,次いでアラゴン王国のバルセロナ伯の手に渡ったが,この間にプロバンスでは封建制の確立と,都市の繁栄をみた。ロマネスク美術,トルバドゥール文学などを中心として,中世文化の最盛期を現出した。13世紀初のアルビジョア十字軍は,ラングドック地方をフランス王権に従属させる契機となったが,プロバンスはこの遠征の対象とならなかった。
1246年,婚姻によってプロバンス伯位についたフランス王の弟,アンジュー伯シャルルは,プロバンスを初めてフランス王権に実質的に接近させる。しかしこの間にプロバンスでは諸身分集会(エタ)の支持のもとに,王権とのあいだの一定の距離が保たれていた。14世紀から15世紀にかけて,おりからアビニョン教皇庁がコンタ・ブネサン地方を取得した。このアビニョン教皇庁時代(1309-77)およびこれに次ぐ分裂時代(1378-1417)の1世紀間に,アビニョンとプロバンス地方に,イタリアをはじめとする外来の人間・物質・文化がもたらされた。その刺激は,教皇庁のローマ帰還ののちも,1434年伯位についたルネ善良侯のもとでの開花を促した。伯ルネのもとに,初期イタリア・ルネサンスの精神が移植され,南フランス文明の絶頂がしるされた。ルネの甥にあたるシャルル・デュ・メーヌが伯位を継いだが,彼は1481年伯領をフランス国王ルイ11世に遺贈し,形式上はプロバンスは王国に併合された。
16世紀の宗教戦争下においては,改革派の勢力も大きく,またブルボン朝の統合に対する抵抗もあって,混乱が長引いた。17世紀にリシュリューは,兵を送って改革派およびプロバンスの地方高等法院の反抗を抑え,1660年にはルイ14世が,マルセイユを占領するなど,繰返し王権への服従を迫った。そのアンシャン・レジーム下のプロバンスは,1720-21年のペストの大流行,地中海世界の全般的な地位の低下などがあって,経済的力量を喪失していった。革命中の1790年プロバンスは〈不可分のフランス〉のうちに統合され,教皇領として残ったコンタ・ブネサンも回収された。行政上の4県に分割され,自立した政治単位としてのプロバンスは,最終的に消滅した。1860年,イタリア独立戦争に際して,ナポレオン3世はニース地方をイタリアから割譲させ,現在の版図が確定した。なお,モナコ公国のみは現在も半ば独立のままである。
19世紀前半のアルジェリア植民地化,後半におけるスエズ運河開通は,フランスと地中海の強い結びつきを復活させた。商業港としてのマルセイユ,軍港としてのトゥーロンの地位が向上し,鉄道の開通もあって,プロバンスは活力を回復しはじめる。20世紀後半におけるプロバンスは,農業においては,旧来のオリーブ栽培,ブドウ酒と牧畜に集中している。さらに古来の伝統にもとづく園芸作物,トマト,メロン,キャベツ,イチゴなどに恵まれ,また香水用植物などによって名声を博している。しかし,山間の小村の人口流出が著しく,平地部での農村人口の増加がみられている。かつては,カマルグにおける海塩製造はプロバンスの重要な産業であり,またレ・ボーLes Bauxは,その地名に由来するボーキサイトの産地として知られていたが,その地位はいまでは低下している。これに代わって中東の石油に依存するコンビナートが建設され,マルセイユ新港をはじめとする海岸部での産業発展に,重点的な投資が行われつつある。
コート・ダジュール海岸は,広義には,トゥーロンからイタリアのジェノバに至る,出入りの多く幅の狭い海岸地帯のことをいう。19世紀から,ことに1930年代以降,保養地としての開発がすすみ,現在ではニース,カンヌ,モナコをはじめとして高級保養地がならび,バカンス観光の基地として,国際的に知られている。
長期間にわたって,実質的な独立を享受してきた地方であるプロバンスでは,その特異な自然的条件もあって,気質のうえでは人びとは開明的であり,農業に多くを依拠しつつも,都市的文化の基調を保ちつづけている。農村においては,北風ミストラルと夏の熱暑を防ぐために,イトスギ防風林と小窓をもつ館masが特徴的である。またクリスマス祝福に由来する陶製の小人形サントンは,プロバンスの民間芸術として愛好されている。地中海産の魚貝と,ここで産するサフラン花粉とを材料とするブイヤベースは,地方料理としてひろく賞味される。これら民俗,民間文化においても,プロバンスはひとつのまとまりをなしている。
特有の社会,文化的伝統をもつプロバンスが,歴史的個体としてことに強く意識されるようになるのは,19世紀後半においてである。上述のごとく,政治上のアイデンティティが一貫して意識されてきたことは確かであるが,19世紀に近代国家としての強力な統合化が現実になったとき,これに対抗するかのように,プロバンス文化復興運動が興った。詩人F.ミストラルを先頭として,プロバンス語復興が唱えられた。プロバンス語は,ラングドック語などとともに,オック語(オクシタン)の一部をなし,現在のフランス語の母体たるオイル語とは,大幅に異なる。オック語はかつてトルバドゥール詩人たちが用いた言語であり,詩人ミストラルらの手で,あらためて文学的表現力の回復が主張された。この運動は一時大きく盛り上がったのち,現在では鎮静しているが,文化全般におけるプロバンスのアイデンティティは,引きつづき唱導されているといえる。政治的にもパリの中央政治に対する対抗意識は強く,庶民の反パリ,反北フランス感情は,現代社会の展開のなかでも,依然として根強い。実際にも,古代ローマの古典文化を正統的に継承したこの地方にあっては,ローマ遺跡が点在し,法制上のローマ法の伝統が長期間にわたって社会生活を統御してきた。人種的にも北フランスとは大きく異なり,ゲルマン人の要素は相対的に低いと考えられる。歴史上の由来に基づくこれらの特異性が,プロバンスの地方的アイデンティティの基底に存在することは疑いがない。ミストラル以外にも画家セザンヌ,作家A.ドーデらが,プロバンス人の自己表現として注目される。
この事情に対応するかのように,〈太陽あふれる古い文化の地〉に対する,北方のヨーロッパ人の憧憬が生まれた。19世紀末にアルルに住んだゴッホ,ゴーギャンから,現在,コート・ダジュールにアトリエと美術館をおく画家たちにいたるまで,プロバンスの賞揚はときに幻想にまで達した。それはヨーロッパ人の南方・太陽志向の現代的な表れとみなすことができる。
執筆者:樺山 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランス南東部の歴史的地域名、旧州名。ローヌ川下流からアルプス山脈に至る地域で、現在のブーシュ・デュ・ローヌ、バール、アルプ・ド・オート・プロバンス、アルプ・マリティーム、ボークリューズの5県にあたる。ローヌ川河口のカマルグ地方を除き、大部分は山がちである。山中ではヒツジの飼育が盛んで、よく発達した河谷にはブドウ、オリーブなどが栽培され、地中海海岸部では温暖な気候を利用して野菜、果樹、花卉(かき)の集約的な農業が行われている。デュランス川とベルドン川流域は灌漑(かんがい)水利が発達している。海岸地帯はコート・ダジュールを中心に観光・保養都市が連続し、工業はマルセイユ周辺に発達している。古くからギリシア、ローマの影響を受け、その遺跡が多い。主要都市はマルセイユ、トゥーロン、ニース、エクサン・プロバンス、アルル、アビニョンなど。
[青木伸好]
ローマがガリア征服に際してこの地を最初のプロウィンキア(属州)としたのが地名の由来である。この地方は、帰属などをめぐって特異な発展過程をたどり、プロバンス語(オック語のプロバンス方言)をもち、習俗もイタリア、スペインと共通する面があるなどの特徴をもつ。
紀元前7世紀よりギリシア人が植民し、ローマ時代にも繁栄した。のちフランク王国、ロタールのイタリア王国、ブルゴーニュ王国に属したが、973年ごろイスラム教徒を撃退したウィリアム解放伯がプロバンス伯の始祖となる。11世紀神聖ローマ帝国に属したこともあり、12世紀には婚姻によってスペインのバルセロナ伯の支配を受けた。13世紀にさらに婚姻によりアンジュー伯領に加えられ、シチリア王位についた同伯家がアラゴン家によって王位を追われてプロバンスに帰ったのち、遺贈の形でプロバンス伯領はフランス王ルイ11世に譲られた(1481)。この間12世紀ごろフランス風の封建制が成立していくが、一方十字軍遠征を契機として都市の復興も著しかった。1348年にはアビニョンが教皇クレメンス6世に売却されている。下ってフランス革命下、山岳派独裁の国民公会時代、この地がジロンド派の拠点として公会に反抗したが、1793年マルセイユおよびトゥーロンの陥落でこの抵抗に終止符が打たれた。
[石原 司]
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…だが,王権による中央集権が進むにつれ,フランスではこれらの自治都市の影が薄れていったのである。ルイ14世とその宰相リシュリューはプロバンスに地方監督官を配置し,区域内の地域社会をその完全なる統制のもとにおいた。1789年の国民議会はプロバンスを廃止したが,これに代えて86の県を設置し,これを官選知事に統轄させた。…
…この海洋性気候では,冬に太陽がほとんど見られなくなるものの,野原は緑のままである。
【地域性】
[プロバンスとレジヨン]
フランスは,さまざまな見方によって諸地域に分けられる。現在最も広く用いられている地方名は,フランス革命以後に設定された95の県(デパルトマンdépartement)名ではなく,むしろそれ以前の旧州(プロバンスprovince)またはそれを援用した22の〈地域〉(レジヨンrégionと呼び,数県をまとめたもの)の名前である。…
※「プロバンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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