日本大百科全書(ニッポニカ) 「モーリッツ」の意味・わかりやすい解説
モーリッツ(Karl Philipp Moritz)
もーりっつ
Karl Philipp Moritz
(1756―1793)
ドイツの小説家。敬虔(けいけん)主義を信奉する貧しい軍楽隊士の子としてハーメルンに生まれる。12歳で徒弟奉公に出るが、自殺未遂事件を起こして親元に帰される。その後ハノーバーのギムナジウムに学ぶが、俳優を志望して無断退学。機会を求めて各地を放浪、その間大学で神学を学び、最後はベルリンに移って高等中学校教師となり、かたわら教育学、心理学、美学などを研究する。1786年学校を無断退職してイタリアに旅行、ローマでゲーテと出会って親交を結ぶ。帰国後ゲーテの斡旋(あっせん)でベルリン芸術大学の芸術理論の教授に就任するが、持病の結核のため36歳で死んだ。演劇志望が最終的に挫折(ざせつ)するまでの前半生を描いた自伝小説『アントン・ライザー』全四巻(1785~1790)は近年ふたたび注目を集めている。美学、芸術学その他の領域に多数の著書・論文を残した。
[伊藤利男]
モーリッツ(ザクセン公)
もーりっつ
Moritz
(1521―1553)
アルバート系ザクセン公(在位1541~53)。ルター派の信仰を抱き、シュマルカルデン同盟に属したが、同盟指導者エルンスト系ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒに対する反発心から、1546年神聖ローマ皇帝カール5世に忠誠をひそかに誓った。シュマルカルデン戦争が始まると、同盟を裏切ってヨハン・フリードリヒの家領に侵入し、皇帝軍が47年ミュールベルクの戦いで同盟軍を撃破する原因となった。その結果、選帝侯位はモーリッツに移ったが、皇帝が約束の地マクデブルクを与えなかったので、反逆を決意し、新教諸侯、フランス王と同盟し、52年3月皇帝の不意を襲って、これを惨敗せしめた。翌年新教派諸侯との間に内紛を起こし、戦没した。国家の利益を信仰の上に置いた近世領邦君主の典型である。
[瀬原義生]