12~13世紀以後ドイツ国王の選挙権を有した聖俗諸侯を指す。選挙侯とも呼ばれる。中世のドイツ帝国(ドイツ王が皇帝を兼ねる神聖ローマ帝国)では,古来の選挙原理が強力で王位世襲が確立しなかった。父王が諸侯に息子を共同統治者へ選出させ,死後に彼が支配者となる方式(血統権による選挙制)が堅持された。フランスでは父から子への王位継承が円滑に進み13世紀初めに世襲制が確立したが,ドイツではハインリヒ6世(在位1169-97)の世襲帝国化計画がその急死で挫折した後,選挙王制がますます促進された。1198年の史上初の二重国王選挙は,教皇インノケンティウス3世を裁定者とし,教皇選挙法に代表される教会法の自由選挙の影響を受け,人民を排除した諸侯だけの国王選挙が確定し,ライン諸侯4名(マインツ,ケルン,トリールの三大司教とライン宮中伯)の関与が不可欠とされた。13世紀前半の《ザクセン・シュピーゲル》は,選挙を選挙(狭義)と選定に分け,前者を全諸侯が行い,後者で選定侯が主役を演ずるとし,上の4名にザクセン大公,ブランデンブルク辺境伯を加えた。選定を行う選帝侯は1257年の二重選挙以後慣習法的に確定し,89年にボヘミア王が加わり7名の選帝侯が独占的に国王=皇帝選挙権を有し,大空位時代後の6回の選挙では,領邦国家形成途上の諸侯勢力の利益代表として,家門権力に基づく国王=皇帝と領邦諸国家との二元体制を推進した。14世紀前半に選帝侯会議は法人団体とされ,従来の全会一致から多数決原理へ転換し,国王=皇帝選挙法は金印勅書(1356)で明文化した。
執筆者:池谷 文夫
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中世ドイツ国王=神聖ローマ皇帝を選挙する資格をもつ聖俗の大諸侯。選挙侯ともいう。13世紀前半の法書『ザクセンシュピーゲル』では、マインツ、トリール、ケルンの各大司教、ライン宮廷伯、ザクセン大公およびブランデンブルク辺境伯が選帝侯としてあげられ、のちベーメン王が加わって七大選帝侯といわれた。レンゼの選帝侯会議(1338)で多数決原理が導入され、金印勅書(1356)で確立されるとともに選挙手続も確定され、他方選帝侯には不上訴特権その他多くの特権が与えられた。15世紀初めのフス戦争以降ベーメン王は選帝侯から外され(1708年以後復活)、1623年以降ライン宮廷伯にかわりバイエルン大公が選帝侯となったが、1654年に宮廷伯は復活、1777年宮廷伯領がバイエルンに統合されるまで続いた。ナポレオン1世の支配時代には、「帝国代表者会議主要決議」(1803)により、マインツ大司教領はレーゲンスブルクに移され、フランスに合併されたケルンとトリールにかわって、ウュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・カッセル、ザルツブルク(1805年以降はウュルツブルク)の四選帝侯領が新設された。1806年ライン同盟の成立により、選帝侯会議は最終的に消滅した。
[平城照介]
『町田秀実著『多数決原理の研究』(1958・有斐閣)』
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選挙侯ともいう。ドイツ国王選挙に排他的に関与する諸侯。金印勅書の規定では3人の聖職諸侯(マインツ,ケルン,トリーアの各大司教)と4人の世俗諸侯(ボヘミア王,ライン宮中伯〈プファルツ〉,ザクセン公,ブランデンブルク辺境伯)に限定された。ただし,17世紀にはバイエルン公,ブラウンシュヴァイク・ハノーヴァー公が加えられた。
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