川上貞奴(読み)カワカミサダヤッコ

デジタル大辞泉 「川上貞奴」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐さだやっこ〔かはかみ‐〕【川上貞奴】

[1871~1946]俳優。東京の生まれ。本名、さだ。芸者時代に川上音二郎と結婚。夫とともに欧米を巡業し、女優として舞台に立った。また、帝国女優養成所を設立、後進の育成に尽くした。

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精選版 日本国語大辞典 「川上貞奴」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐さだやっこ【川上貞奴】

  1. 新派女優。音二郎の妻。東京の人。本名小熊貞。はじめ、葭町(よしちょう)の芸妓。夫に協力して新派の発展に尽くし、欧米にも巡業して人気を博した。のち帝国女優養成所、川上児童劇団を創設。明治五~昭和二一年(一八七二‐一九四六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「川上貞奴」の解説

川上 貞奴
カワカミ サダヤッコ


職業
新派女優

本名
川上 さだ(貞)

旧名・旧姓
小熊

生年月日
明治4年 7月18日

出生地
東京府日本橋(東京都 中央区)

経歴
7歳で東京・日本橋葭町の浜田屋の養女となり、16歳の時“奴”の名で芸者になり、伊藤博文ら政界の大物の贔屓を得た。明治24年壮士芝居の川上音二郎と結婚、29年神田に新派劇場・川上座を建てた。32年夫とともに一座17人を連れて渡米、サンフランシスコで貞奴を名乗り「道成寺」「袈裟と盛遠」で初舞台を踏み、評判を呼んだ。ついでニューヨーク、ワシントンロンドンと巡業してパリ万博(33年)にも出演、“マダム貞奴”と賞される。34年欧米に再巡業。帰国後の36年、明治座の「オセロ」で初めて正劇(せいげき)女優として日本の舞台に立った。41年音二郎と帝国女優養成所を設立、後に帝劇に引き継がれた。44年音二郎の死後も「サロメ」などを演じたが、大正6年音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、引退。我が国最初の近代的女優といわれる。翌年名古屋で大同電力社長になった福沢桃介と同棲、自身も川上絹布社長となった。大正末年、川上児童劇団を一時主宰した。晩年、岐阜県各務原市に貞照寺と別荘・晩松園を建て、晩松園は国の登録有形文化財に指定されている。

没年月日
昭和21年 12月7日 (1946年)

家族
夫=川上 音二郎(新派俳優)

伝記
貞奴物語―禁じられた演劇女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダーマダム貞奴―世界に舞った芸者こんな女性たちがいた!万博とストリップ―知られざる二十世紀文化史したたかなロシア演劇―タガンカ劇場と現代ロシア演劇夢のかたち―「自分」を生きた13人の女たち明治を駆けぬけた女たち新編 近代美人伝〈上〉女優貞奴聞き語り にっぽん女性「愛」史ウィーンの日本―欧州に根づく異文化の軌跡舞姫物語シラノとサムライたち新時代のパイオニアたち―人物近代女性史ニューヨークのパフォーミング・アーツ聞き語り にっぽん女性「愛」史シカゴ日系百年史 森田 雅子 著池内 靖子 著レズリー・ダウナー 著,木村 英明 訳にんげん史研究会 著荒俣 宏 著堀江 新二 著鈴木 由紀子 著中村 彰彦 編著長谷川 時雨 著,杉本 苑子 編山口 玲子 著杉本 苑子 著ペーター・パンツァー,ユリア・クレイサ 著,佐久間 穆 訳市川 雅 著塩谷 敬 著瀬戸内 晴美 編大平 和登 著杉本 苑子 著伊藤 一男 著(発行元 ナカニシヤ出版平凡社集英社講談社集英社世界思想社ベネッセコーポレーションダイナミックセラーズ出版岩波書店朝日新聞社講談社サイマル出版会白水社白水社講談社新書館講談社シカゴ日系人会,PMC出版〔発売〕 ’09’08’07’00’00’99’96’94’93’93’92’90’90’89’89’89’88’86発行)

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20世紀日本人名事典 「川上貞奴」の解説

川上 貞奴
カワカミ サダヤッコ

明治期の新派女優



生年
明治4年7月18日(1871年)

没年
昭和21(1946)年12月7日

出生地
東京府日本橋(現・東京都中央区)

本名
川上 さだ(貞)

旧姓(旧名)
小熊

経歴
7歳で日本橋葭町の浜田屋の養女となり、16歳の時“奴”の名で芸者になり、伊藤博文ら政界の大物のひいきを得た。明治24年壮士芝居の川上音二郎と結婚、29年神田に新派劇場・川上座を建てた。32年夫とともに一座17人を連れて渡米、サンフランシスコで貞奴を名のり「道成寺」「袈裟と盛遠」で初舞台を踏み評判を呼んだ。ついでニューヨーク、ワシントン、ロンドンと巡業してパリ万博(33年)にも出演、“マダム貞奴”と賞される。34年欧米に再巡業。帰国後36年明治座の「オセロ」で初めて正劇(せいげき)女優として日本の舞台に立った。41年音二郎と帝国女優養成所を設立、後に帝劇に引き継がれた。44年音二郎の死後も「サロメ」などを演じたが、大正6年音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後引退。わが国最初の近代的女優といわれる。翌年名古屋で大同電力社長になった福沢桃介と同棲、自身も川上絹布の社長になった。大正末年川上児童劇団を一時主宰した。昭和8年には岐阜県鵜沼に貞勝寺という寺を建立。13年桃介没後も長生した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川上貞奴」の意味・わかりやすい解説

川上貞奴
かわかみさだやっこ
(1871―1946)

女優。本名小熊貞。東京・日本橋生まれ。15歳で葭町(よしちょう)の芸者となり、伊藤博文(ひろぶみ)の知己を得た。1891年(明治24)、川上音二郎(おとじろう)と中村座公演の際に知り合って結婚し、経済的に彼を支えた。1899年に音二郎とともに欧米に巡業し初めて女優として舞台を踏んだが、彼女の人気は夫を凌駕(りょうが)し、2年後の再渡欧では東洋のドゥーゼとまでいわれた。帰国後は川上の正劇(せいげき)運動の女優として活躍、1908年(明治41)には帝国女優養成所を主宰して帝劇女優劇の基礎を築いた。1917年(大正6)引退したが、1924年には久留島武彦(くるしまたけひこ)の協力で「川上児童劇団」を発足させ、1932年(昭和7)まで経営にあたった。川上没後、福沢桃介(ももすけ)(福沢諭吉の女婿)が彼女を助けてきたため、世間の批判を受けることもあった。33年に岐阜県鵜沼(うぬま)に貞照寺を建立して入山。昭和21年12月7日、75歳で熱海(あたみ)に没した。

[松本伸子]


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改訂新版 世界大百科事典 「川上貞奴」の意味・わかりやすい解説

川上貞奴 (かわかみさだやっこ)
生没年:1871-1946(明治4-昭和21)

明治の新演劇(新派)の女優。6歳から東京葭(よし)町の花柳界で育った貞(源氏名は奴(やつこ))は,22歳で川上音二郎と結婚。1899年の川上一座の渡米時にサンフランシスコで初めて舞台に立ち,《道成寺》を踊った。翌年パリでも盛名を馳せ,〈マダム貞奴〉の名は日本でも大きく報道された。日本での舞台出演は,1903年の《オセロ》が最初。スターとして人気を博したが,音二郎没後はしだいに疎んじられ,1917年の《アイーダ》を最後に引退した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「川上貞奴」の解説

川上貞奴

没年:昭和21.12.7(1946)
生年:明治4.7.18(1871.9.2)
明治大正期の女優。本名貞。東京日本橋の生まれ。初め葭町の芸者で奴を名乗り,伊藤博文や奈良原繁,福沢桃介らと知り合う。明治27(1894)年川上音二郎と結婚。32年に川上一座と共に渡米し,サンフランシスコで初めて女優となる。33年ニューヨーク,ロンドンを経て,パリでマダム貞奴の名を高めた。「芸者と武士」などの演技に魅せられたひとりにジッドがあり,またピカソは素描を残した。36年帰国後は日本の舞台に出演して人気女優になったが,44年に音二郎と死別したのちは次第に劇界から孤立して凋落し,大正7(1918)年引退した。<参考文献>長谷川時雨『近代美人伝』,「貞奴思ひ出話」(『東京朝日新聞』1937年2月22日夕~3月2日夕)

(倉田喜弘)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川上貞奴」の意味・わかりやすい解説

川上貞奴
かわかみさだやっこ

[生]明治4(1871).7.15. 東京
[没]1946.2.7. 熱海
女優。本名小熊貞。美貌の芸者として知られたが,1891年俳優で興行師の川上音二郎と結婚,以後川上のよき協力者となる。 98年夫とともに渡米。欧米を『武士と芸者』などを売物に巡業,このときから貞奴を名のって舞台に立った。 1901~02年再度渡米,帰国後正劇女優として『オセロ』などに出演。 08年帝国女優養成所 (のち帝劇附属技芸学校) を開設。 17年明治座で引退興行をしたのち,一時川上児童音楽劇団を主宰した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川上貞奴」の解説

川上貞奴 かわかみ-さだやっこ

1871-1946 明治-大正時代の女優。
明治4年7月18日生まれ。東京葭(よし)町の芸者となり,明治27年川上音二郎と結婚。32年川上一座とともに渡米,サンフランシスコではじめて舞台にたつ。翌年パリで「マダム貞奴」の名をたかめた。帰国後,川上の正劇の女優として活躍。41年帝国女優養成所を設立。昭和21年12月7日死去。76歳。東京出身。旧姓は小熊。本名は貞。

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百科事典マイペディア 「川上貞奴」の意味・わかりやすい解説

川上貞奴【かわかみさだやっこ】

明治の新演劇(新派)の女優。本名小熊貞。東京生れ。葭(よし)町から奴(やっこ)の名で芸者に出ていたが,川上音二郎と結婚,女優となって海外にも巡演,〈マダム貞奴〉の名で知られた。

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367日誕生日大事典 「川上貞奴」の解説

川上 貞奴 (かわかみ さだやっこ)

生年月日:1871年7月18日
明治時代の新派女優
1946年没

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世界大百科事典(旧版)内の川上貞奴の言及

【ハムレット】より

…逍遥訳初版は,もっぱら実演に便宜なように企図したため,訳詞が歌舞伎式,七五調となったと彼自身述懐している。上演面では,土肥春曙と山岸荷葉が明治の華族のお家騒動物に翻案したものを川上音二郎の一座が1903年東京本郷座で上演,葉村年丸(原作のハムレット)を藤沢浅二郎が,おりえ(オフィーリア)を川上貞奴が演じた。原作に忠実な上演は文芸協会設立(1906)以降で,1911年には逍遥訳・演出(配役,ハムレット=土肥春曙,オフィーリア=松井須磨子)により上演された。…

※「川上貞奴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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