出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
俳優。文久(ぶんきゅう)4年1月1日博多(はかた)に生まれる。14歳で上京、給仕、巡査などの職を転々としたのち、郷里で政治運動に投じ、自由童子と名のって過激な言動に走り、しばしば投獄された。やがて政談演説が禁止されると、浮世亭○○(うきよていまるまる)の芸名で大阪の寄席に現れ時局風刺の漫談を演じ、1887年(明治20)には京都の中村駒之助(こまのすけ)一座で俳優としての経歴を始めている。その後、書生芝居の一座を組んで巡業、1890年に東京の開盛座に進出、翌年『板垣君遭難実記(いたがきくんそうなんじっき)』をもって念願の中村座公演を果たした。その特異な格闘技や即興的演技で人気を得、ことに幕間(まくあい)に演じたオッペケペー節が評判をよんだ。1893年パリに赴き、帰国して西洋演劇の意匠を取り入れた翻案劇『意外』『又意外』『又々意外』を、さらに日清(にっしん)戦争の勃発(ぼっぱつ)に乗じて『日清戦争』を上演するなどで大成功を収めた。1896年には東京・神田に自力で川上座を建設したが、代議士に立候補して落選し、人手に渡った。1899年には妻の貞奴(さだやっこ)とともに一座を率いて欧米に公演し、好評を得て2年後に再度渡欧、ほとんどヨーロッパ全土を巡業した。帰国後、正劇(せいげき)運動と銘打って興行形態を改革し、『オセロ』『ハムレット』などを上演。しかし、俳優としてはあまり評価されず、晩年は興行師としての仕事に専心し大阪に帝国座を建てたりしたが、病のため明治44年11月11日没。草創期の新派劇の先覚者として評価されている。
[松本伸子]
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明治の俳優。九州博多生れ。14歳で上京し苦労するが,自由民権運動に同調。言論取締りに反抗して講談落語で政治宣伝をしようと,1883年大阪で演説芸人になった。壮士芝居の角藤定憲(すどうさだのり)に刺激されて,91年堺で川上書生芝居を旗揚げした。同年上京し,《板垣君遭難実記》や政治,風俗を風刺した専売のオッペケペ節(陣羽織に鉢巻,日の丸の軍扇を用いて,ジェスチュアよろしく博多弁でうたった)により,歌舞伎にない風変りが評判になった。しかし技術の低さを知り,93年フランスへ行く。翌年探偵劇《意外》《又意外》の続演と,さらに日清戦争が起こるとすぐ戦争劇《壮絶快絶日清戦争》を出して,ともに大当りをとった。アイデアに富み,欧米からの吸収に大胆で,興行的にも俗受けしたが,彼のいう〈改良劇〉や〈正劇(せいげき)〉は実らなかった。99年から4年,女優川上貞奴(さだやつこ)となった夫人ら一座と2度の欧米巡業に出たが,その間に後輩は壮士劇を脱して新派劇の基礎を築くことになる。晩年は興行師に転じ,帝国女優養成所,小劇場帝国座を開いた。
執筆者:宮岸 泰治
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明治期の新派俳優,興行師
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(藤木宏幸)
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1864.1.18~1911.11.11
明治期の俳優。筑前国生れ。自由民権期の政治青年として自由童子を名のり,演説を芸とし,オッペケペ節で人気を得る。1890年(明治23)関東ではじめて壮士芝居を演じ,翌年川上書生芝居を創始。93年に渡仏,帰国後の舞台で好評を博し,日清戦争劇で大成功をおさめた。99年に夫人川上貞奴(さだやっこ)と欧米に巡業して名を高め,帰国して翻案劇を上演した。1907年には俳優を引退,興行師となった。
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…歌舞伎が主流であった1880年代末に,自由民権運動末期の政治宣伝劇としてこの新しい演劇ジャンルは生まれてくるが,歌舞伎の俳優が職業俳優であったのに対して,この新演劇は書生あがり,壮士あがりの素人によって始められ,名称の由来ともなった。1890年川上音二郎は大阪俄(にわか)を改良した〈書生仁輪加(にわか)〉の一座を組織して横浜,東京で公演,翌91年には堺の卯の日座に〈書生芝居〉の一座を旗揚げし,同年東京浅草鳥越の中村座に《板垣君遭難実記》やオッペケペ節を演じて喝采をあびた。これが書生芝居の最初とされる。…
…しかし,今日われわれが〈新派〉と呼びならわしている演劇ジャンルの発端は次の二つの動きの中に見ることができる。一つは1888年12月3日,大阪の新町座で自由党壮士角藤定憲(すどうさだのり)が〈日本改良演劇〉を名乗り,《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》などを上演し,また遅れて91年2月5日,堺の卯(う)の日座で川上音二郎が新演劇の旗揚げをした,いわゆる壮士芝居,書生芝居の運動である。彼らは,ともに民権運動期の政治講談,政治小説を劇化上演したが,もはや民権運動が衰退した時期にあって,思想鼓吹が主たる目的というよりも,生活手段を芝居に求めたという気味が強かった。…
…逍遥訳初版は,もっぱら実演に便宜なように企図したため,訳詞が歌舞伎式,七五調となったと彼自身述懐している。上演面では,土肥春曙と山岸荷葉が明治の華族のお家騒動物に翻案したものを川上音二郎の一座が1903年東京本郷座で上演,葉村年丸(原作のハムレット)を藤沢浅二郎が,おりえ(オフィーリア)を川上貞奴が演じた。原作に忠実な上演は文芸協会設立(1906)以降で,1911年には逍遥訳・演出(配役,ハムレット=土肥春曙,オフィーリア=松井須磨子)により上演された。…
…京都生れ。雑誌《活眼》や《東雲(しののめ)新聞》の記者をしたのち,1891年堺で川上音二郎の書生芝居の旗揚げに俳優兼作者として参加,《板垣君遭難実記》《経国美談》《日清戦争》ほかの台本を執筆した。また《金色夜叉(こんじきやしや)》の貫一,《己が罪》の塚口などを演じ,新派の幹部俳優として活躍した。…
※「川上音二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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