演劇ジャンルの名称。〈新派劇〉という言い方をすることも多い。もともとは歌舞伎を〈旧派〉と呼ぶ対照からきた名称だが,いつ,だれがそのように呼び始めたのかはよくわかっていない。しかし,今日われわれが〈新派〉と呼びならわしている演劇ジャンルの発端は次の二つの動きの中に見ることができる。一つは1888年12月3日,大阪の新町座で自由党壮士角藤定憲(すどうさだのり)が〈日本改良演劇〉を名乗り,《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》などを上演し,また遅れて91年2月5日,堺の卯(う)の日座で川上音二郎が新演劇の旗揚げをした,いわゆる壮士芝居,書生芝居の運動である。彼らは,ともに民権運動期の政治講談,政治小説を劇化上演したが,もはや民権運動が衰退した時期にあって,思想鼓吹が主たる目的というよりも,生活手段を芝居に求めたという気味が強かった。演技・演出ともに基本的には歌舞伎の物まねであったが,書生的な蛮声をはりあげての弁舌が注目された。もう一つの出発点は,91年11月に浅草の吾妻座で伊井蓉峰(ようほう)が〈男女合同改良演劇〉と称して〈済美館(せいびかん)〉を興し,依田学海《政党美談淑女之操》などを上演し,また翌年7月市村座で山口定雄が,93年6月吾妻座で福井茂兵衛(1860-1930)が,それぞれ一座を組織し旗揚げをした動きである。彼らには政治色はまったくなく山口は元歌舞伎役者だし,伊井も芝居好きで銀行勤めからこの世界にとびこんだ人間であった。これら各座に参加したおもな俳優に,高田実,喜多村緑郎,藤沢浅二郎,水野好美,河合武雄,小織(さおり)桂一郎,静間小次郎,佐藤歳三らがいた。
当時の新聞は彼らの新しい芝居を総称して〈新演劇〉と呼び,やがてそれが歌舞伎の〈旧派〉と対照される形で,〈新派〉と通称されるようになったものと思われる。しかし,角藤や川上が中村宗十郎,秋月が市川権十郎,喜多村が嵐璃玨(りかく),高田が尾上卯三郎など歌舞伎役者に私淑してその演技を模倣していたように,実質はけっして新しいものではなかった。だが,機を見るに敏な川上は,94年1月浅草座で当時話題の相馬事件を岩崎蕣花が脚色した《意外》の上演に成功,《又意外》《又々意外》を出して大当りをとり,日清戦争勃発に際しては《壮絶快絶日清戦争》などの戦争劇で歌舞伎座進出を果たし,96年には神田に川上座を建設するにいたった。しかし戦争終結で勢いを失い,99年4月渡米巡業,妻の川上貞奴(さだやつこ)を女優にしたてあげて欧米の地に足跡を残し,帰朝すると江見水蔭翻案で《オセロ》を〈正劇〉と称して上演するなどしていた。他の各座もしばらく雌伏期にあったが,1902年になり,歌舞伎界で団菊左の名優があいついで没すると,〈新派〉は一挙に全盛期をむかえることになった。04年から明治末まで数年間,《想夫恋》《高野聖》《乳姉妹(ちきようだい)》《己が罪》《俠艶録(きようえんろく)》《通夜物語》《婦系図》など,尾崎紅葉,泉鏡花,菊池幽芳,渡辺霞亭らの新聞小説の劇化と,畠山古瓶(こへい),花房柳外,田口掬汀(きくてい),小栗風葉,柳川春葉,小島孤舟,佐藤紅緑らの作者が脚本を書き,俳優としては井上正夫,福島清,村田正雄,山崎長之輔,英太郎,木下吉之助,山田九州男,藤村秀夫らが輩出した。全盛期には松竹によって〈本郷座〉でしばしば新派大合同公演がもたれ,そこは〈新派のメッカ〉といわれた。
しかし,川上は11年に没し,またその間,坪内逍遥の文芸協会,小山内薫・2代市川左団次提携の自由劇場など新劇運動が開始され,またさらに帝劇の開場などもあって女優の活躍が始まると,女形芸で家庭悲劇を描く新派のパターン化した芝居は行きづまりを見せる。すでに10年に井上正夫は〈新時代劇協会〉をおこしG.B.ショーの《馬盗人》などを上演して新境地を開こうとしていたし,13年には河合武雄が〈公衆劇団〉を結成,また文壇を追われた真山青果が松竹に入社して,亭々生の名で《黒髪物語》や《雲のわかれ路》の作品を作り〈新派〉を支えようとした。16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い花柳(はなやぎ)章太郎が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した水谷八重子を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。
低調だった〈新派〉が活気を得たのは,31年11月明治座上演の瀬戸英一《二筋道》であった。これが大当りして続編,続々編,外編と重ねて上演されることとなったが,この芝居によって〈新派〉は〈花柳界の男女を写実的に表現する演劇〉という定評をつくったともいえる。また三頭目と共演してきた花柳らは,38年10月に〈新生新派〉として独立する道を選び,川口一郎《島》,久保田万太郎《萩すすき》,真船豊《太陽の子》,あるいは《雁》《歌行灯》の脚色と,文芸物に力を入れつつ,また劇団の主事となった川口松太郎(1899-1985)の《風流深川唄》《明治一代女》《鶴八鶴次郎》などを上演して大当りをとった。新生新派に去られた河合,喜多村,小堀,藤村,英,梅島昇らは〈本流新派〉と呼ばれ(1942年3月の河合の死で〈劇団新派〉と改称),ときに芸術座の水谷との共演も行った。一方,井上正夫は〈新派〉でもない新劇でもない〈中間演劇〉を標榜して井上演劇道場を36年4月におこし,岡田嘉子,市川紅梅(のち市川翠扇)らの俳優を擁しつつ,水谷とも共演,また一方では新劇の村山知義や杉本良吉らを演出に迎えた。井上道場では久板(ひさいた)栄二郎《断層》《北東の風》,三好十郎《彦六大いに笑ふ》《地熱》,北条秀司(ひでじ)《華やかなる夜景》《閣下》,八木隆一郎《熊の唄》《海の星》など意欲に燃えた問題劇を上演した。
敗戦後には,井上は演劇道場を解散して一時は村山の第2次新協劇団に参加,また柳と伊志井は新生新派を離れて〈新作座〉を結成していたが,49年1月には大同団結なって〈劇団新派〉という単一劇団の組織化に成功した。水谷八重子もこの劇団に加わったものの,新劇の演出家菅原卓の援助のもとで,滝沢修を相手役として《椿姫》など新劇的な演目に力を入れる時期があった。しかし,他方では文学座から東京芸術劇場,民衆芸術劇場(劇団民芸の前身)と新劇畑を歩んできた森雅之(1911-73)が花柳を頼んで劇団員と等しい特別参加を続けるという例も生まれた。やがて,花柳は北条秀司の《女将》《太夫(こつたい)さん》《京舞》などの秀作や川口松太郎《銀座馬鹿》などの銀座シリーズで好評を得るようになり,水谷も中野実(1901-73)の《息子の青春》《明日の幸福》,川口松太郎《皇女和の宮》,三島由紀夫《鹿鳴館》などに自分の芸境を発見するようになっていった。
こうして,劇団新派は戦後は東京築地の新橋演舞場をホームグラウンドに安定した上演活動を続け,阿部洋子,京塚昌子,緋多景子,花柳喜章,金田竜之介,菅原謙次,安井昌二,英つや子,水谷良重,波野(のち波乃)久里子ら新しく加わった俳優も成長していくが,61年に喜多村が世を去り,65年に花柳が没したころから,かげりの色が濃くなってきた。一つの原因になったのは看板女優水谷の度重なる病気休演であり,また新派劇を支えてきた観客層自体の高齢化という問題もあった。72年の春,英太郎,伊志井寛,大矢市次郎が相ついで他界,皮肉にもその直後の6月,国立劇場の主催で,新派第1回公演が《滝の白糸》などをもって行われた。国立劇場が歌舞伎,文楽以外に新派を主催公演に加えたということは,〈新〉派劇が一種の〈旧〉劇とみなされたことにほかならぬだろう。大黒柱,水谷の相手役には歌舞伎から中村吉右衛門が選ばれ,《婦系図》《日本橋》《明治一代女》《白鷺》と,泉鏡花,川口松太郎の世界が展開,盛況をみせた。しかし水谷八重子は78年10月の山本有三《女人哀詞》がその最後の輝きとなり,79年10月1日乳癌で死去,これは劇団に決定的な打撃を与えた。以後の〈新派〉は今日にいたるまでいろいろな意味で困難な状況の中で活動を続けている。明治末に新派が最盛期を迎えたとき,すでにパターン化していた新派芸の中核は,喜多村や河合や英らの独特の女形芸であった。それを継承したのが花柳であったし,八重子や翠扇にしても単なる女優ではなくて,女ながらも女形芸を演ずる女優だったということができるだろう。観客が期待しているのは,そのような女形芸によって花柳,水谷が演ずる同じ脚本の繰り返しであった。〈新派〉が新しい脚本によって現代演劇であり続けることはほとんど考えられず,逆に〈新派〉がかつて〈旧劇〉とした歌舞伎の坂東玉三郎が,新派の遺産である鏡花劇を積極的に上演するという事態は実に象徴的でもあり,また皮肉な現象と言わざるをえない。
執筆者:野村 喬
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新派劇とも。日本演劇の一部門。明治期には,演劇のみならず文学・美術の各分野で在来の表現形式を旧派とよび,新しい表現形式を求めるのを新派と称した。演劇では明治20年代の角藤(すどう)定憲・川上音二郎らの壮士芝居が新演劇とよばれ,一方伊井蓉峰(ようほう)らが男女合同演劇で話題となった。その後,高田実・喜多村緑郎(ろくろう)・河合武雄らも人気を集め,日清・日露両戦争をへて旧派(歌舞伎)に対する新派という呼称が定着し,明治末には小説の劇化によって最盛期を誇った。大正期に一時人気が衰えたが,昭和期に花柳章太郎の存在もあって盛り返し,水谷八重子の参加を得て,第2次大戦後も1960年代まで大きな位置を占めた。両優の没後も命脈を保ち,豊富な演目群は大きな財産といえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…後者は,バスティアン・ルパージュJules Bastien‐Lepage(1848‐84),コランなどで,イタリア,ドイツ,ロシアなどにもその影響が及んだ。日本ではコランに学んだ黒田清輝,久米桂一郎によって明治20年代後半(1890年代)にもたらされ,陰影部分に紫を用いたことから紫(むらさき)派,また新派と呼ばれ,それ以前の明治初期以来の洋画家たちを脂(やに)派,旧派と呼んだ。日本の外光派は明治30年代白馬会に結集し,旧派を圧倒して大正期まで日本洋画界の主流を形成した。…
…結成の年最初の展覧会を開き,1910年に第13回展を開催して解散した。世間から新派あるいは紫派と呼ばれたこの会は,文芸界の浪漫主義思潮に呼応して勢いを伸ばし,旧派あるいは脂派(やには)と呼ばれた明治美術会を圧倒して洋風美術の主流になった。付属機関として設けられた白馬会絵画研究所が美術家養成に果たした役割も小さくない。…
…これらに対し,19世紀後半になると,資本主義の発達がもたらした社会変動にともなう犯罪の激増,とくに累犯の増加という状況に対して,犯罪者に応報あるいは一般予防のために刑罰を加えても,犯罪をくり返す人々がいる以上,犯罪対策として意味がないという主張がなされた。そこでは,犯罪者に対する特別予防のために刑罰を加えることによって社会を防衛しようとする考え方が強くなったのである(新派)。その考え方は,刑罰では再犯を予防し,社会の安全を防衛するのに不十分な場合があるという理由で,刑罰を補充し,または刑罰に代えて,行為者の危険性に対応する制度として保安処分を設けるべきであるという主張に連なっていくのである。…
…大正中期の東京下町の人情を背景に,愛しあいながら結ばれない芸人の悲哀を描いた〈芸道物〉の代表作。作者の脚色で38年1月,明治座で花柳章太郎・水谷八重子主演により初演,以後新派の当り狂言となった。同年成瀬巳喜男監督により,長谷川一夫・山田五十鈴で映画化もされ人気を博した。…
…翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。
【牧野省三と日活――映画企業の始まり】
[松之助映画のブーム]
1912年,吉沢商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂の4社が合併して,日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。…
…新派俳優。本名青山章太郎。…
※「新派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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