中野区(読み)ナカノク

デジタル大辞泉 「中野区」の意味・読み・例文・類語

なかの‐く【中野区】

中野

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日本歴史地名大系 「中野区」の解説

中野区
なかのく

面積:一五・五九平方キロ

武蔵野台地の中央部に位置し、北は練馬区・豊島区、東は新宿区、南は渋谷区、西は杉並区に接する。北部を妙正寺みようしようじ川、南部から南東端を神田川が東流する。中央南寄りをほぼ東西にJR中央本線、その北方を西武新宿線が走る。南部には地下鉄網が発達し、営団丸ノ内線と都営大江戸線が中野坂上なかのさかうえ駅で交差する一方、営団東西線がJR中野駅以西の中央本線に乗入れている。道路は南部を青梅おうめ街道(主要地方道東京―所沢線)、中央部を早稲田(主要地方道飯田橋―石神井―新座線)、北部を新青梅街道(都道落合―井草線)が通り、これらに南東部を南北に走る山手通(主要地方道環状六号線)が交差している。

〔原始〕

妙正寺川・神田川が開析した台地縁辺に約一〇〇ヵ所の遺跡が確認されている。旧石器時代の遺跡は新井三丁目あらいさんちようめ遺跡でナイフ形石器江古田えごた遺跡でサイドスクレーパー、ナイフ形石器が検出されている。縄文時代は江古田遺跡で後期の集落跡が発見されており、その生産活動地である北江古田遺跡ではクルミの埋納土坑、漆塗耳飾、漆塗椀、タガがめぐらされた漆塗浅鉢土器などが中期・後期を中心とする大量の土器とともに検出され、注目を集める。弥生時代の遺跡としては二六〇軒以上の後期の住居跡が検出された平和の森公園北へいわのもりこうえんきた・新井三丁目遺跡がある。未調査地区を含めれば推定五〇〇軒近くが予想される都内有数の大集落で、高床倉庫方形周溝墓の検出や菊川式といった外来土器の出土もあり、神田川下流の諸遺跡との有機的な関係が考えられている。古墳時代では遠藤山えんどうやま遺跡で五世紀後半から六世紀前半にかけての陸橋付円墳が三基発見されている。集落跡としては六世紀前半の北原きたはら遺跡・神明小学校校庭しんめいしようがつこうこうてい遺跡、七世紀前半の平和の森公園北・新井三丁目遺跡、北原遺跡向田むかいだ遺跡が調査されている。奈良時代の遺跡は現在のところ確認されていない。区内全域でかなりの密度で試掘調査が行われているが、この時期の遺物については破片すら検出されておらず、大きな特色となっている。

〔中世〕

律令制下から多摩郡に所属したと推測され、近世に至っても変化はない。南北朝期に登場する中野郷は多摩郡の東部に位置する。郷域は現在の中野区・杉並区に加え、新宿区の一部も含まれ、現在の中野区よりかなり広い範囲に及んでいる。文明一〇年(一四七八)と推定される六月二五日の常大坊旦那持分書立写(熊野那智大社文書)には「中野十二郷」とみえ、郷内に一二の村が存在していたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中野区」の意味・わかりやすい解説

中野〔区〕
なかの

東京都 23特別区の一つ。 1932年区制。 1947年特別区制。地名の由来は,かつて武蔵野を上野,中野,下野と分け,この地を中野と呼んだことによるといわれる。武蔵野台地にあり,妙正寺川,神田川沿いに狭い低地がある。江戸時代には,青梅街道の宿駅として発達した現在の中野本町通り付近を除けば,畑作農村地帯であった。日清戦争以後,陸軍の電信隊など多くの軍施設がおかれた。また都市計画によって都心から多くの寺院が移転され,いくつかの寺町が形成された。 1922年北部に西武鉄道新宿線が開通,淀橋台地一帯は関東大震災以後急速に宅地化が進んだ。 JR中央線中野駅を中心にビルが立ち並び,繁華街となっている。北部に新井薬師,哲学堂公園や三井文庫があり,円山応挙筆の『雪松図』ほか5点の国宝を所蔵する。 JR中央線,西武鉄道新宿線,東京地下鉄東西線,丸ノ内線,都営地下鉄大江戸線などの交通網も充実。面積 15.59km2。人口 34万4880(2020)。

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