曲直瀬道策(読み)まなせ・どうさく

朝日日本歴史人物事典 「曲直瀬道策」の解説

曲直瀬道策

没年:慶応3.5.25(1867.6.27)
生年天保9(1838)
幕末の医者,尊攘運動家。号は亨徳院。山城国(京都府)乙訓郡向日神社の社家六人部是香の次男。禁裏医官曲直瀬正元の娘を娶りその養子となる。是香に平田派皇学を学び,勤王の志をいだく。養家の先々代が加賀(金沢)藩侍医を勤めた関係もあって,同藩勤王派の有志に同藩の世子前田慶寧の上洛をうながす。一方,小松帯刀らと船舶運輸業によって利益をあげて志士救済をもくろんだが,募金運動に奔走中,大坂難波新地で幕府刺客によって殺された。葬地は京都寺町の十念寺。<参考文献>田尻佐編『贈位諸賢伝』

(宗田一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「曲直瀬道策」の解説

曲直瀬道策 まなせ-どうさく

1838-1867 幕末の医師
天保(てんぽう)9年生まれ。曲直瀬正元(しょうげん)の娘婿となり,亨徳(こうとく)院の号をつぐ。実父の山城(京都府)向日(むこう)神社神職六人部是香(むとべ-よしか)に平田派の国学をまなび,諸藩の尊攘(そんじょう)派とまじわった。慶応3年5月25日大坂難波(なにわ)新地で新選組に斬殺(ざんさつ)された。30歳。名は是盛。号は翠竹院。

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