カナダ(読み)かなだ(英語表記)Canada

翻訳|Canada

精選版 日本国語大辞典 「カナダ」の意味・読み・例文・類語

カナダ

(Canada) 北アメリカ北部にあるイギリスの王位継承者を元首とする立憲君主国。一七世紀にイギリス、フランスが進出して多くの植民地を設立したが、一七五六年から六三年の七年戦争に勝ったイギリスが、以後カナダ全域を支配した。一八六七年にカナダ自治領、一九三一年に主権国家となる。以降、イギリス連邦の一員。四九年には正式国名をカナダとした。ウラニウム、鉄鉱石、石油などが豊富。農業、特に小麦の主産地として知られる。林業、工業もさかん。首都オタワ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カナダ」の意味・わかりやすい解説

カナダ
かなだ
Canada

総論

北アメリカ大陸北方に位置するイギリス連邦加盟国で、連邦制に基づく立憲君主国。正式名称Canada。10州provinceと3テリトリーterritory(準州)からなる。1999年4月に先住民イヌイットの初めての自治体であるヌナブート・テリトリー(Nunavut)が創設された。面積997万0610平方キロメートル、人口3161万(2006国勢調査)、3297万(2007推定)。

 カナダの地名については、先住民のイロコイ人の言語のなかの「集落」kanataが語源であるという説があるが、明確な定説はない。

 北は北極海に臨み、東は大西洋、デービス海峡およびバフィン湾、西はアメリカ合衆国アラスカ州と太平洋、南は合衆国本土と境を接している。北限は北緯83度7分(エルズミア島のコロンビア岬)、南限は北緯41度41分(エリー湖中のミドル島)であり、これは日本では青森県むつ市付近にあたる。なお西経144度以東バフィン諸島までの北極海上の島々もカナダに属する。海岸線総延長は世界最大級で、本土のみで5万8500キロメートル、諸島を含むと24万0800キロメートルに達する(日本の海岸線の総延長は2万6500キロメートル)。合衆国とはアラスカ州を含めて2万8843キロメートルの国境線を共有する。面積はロシアに次いで第2位である。寒冷な気候のため農業適地は7%にすぎず、人口の大半は合衆国との境界100キロメートル以内に帯状に居住する。

 この国土の広さと、高緯度からもたらされる寒冷気候は、多くの点で人々の生活を特徴づけている。カナダは六つの時間帯に分かれており、全国で4時間30分の時差をもつ。最東端のニューファンドランド標準時はグリニジ時より3時間30分遅く、最西端の太平洋標準時は8時間遅れとなっている。たとえば、グリニジ時の正午はニューファンドランド州のセント・ジョンズでは8時30分、西端のユーコン・テリトリーのホワイトホースでは4時にあたる。大陸横断鉄道から放送網に至るまで、広大な国土のなかのコミュニケーションの確立のため、惜しみなく財源を費やしているのもその一例である。先進工業国のなかでは例外的に天然資源の豊富な国として知られているが、寒冷な気候ゆえにエネルギー消費量は人口に比して莫大(ばくだい)である。

[大原祐子・木村和男]

自然

地形・地質

カナダの地質構造とそれを背景とする地形は、国土の広さのわりに複雑ではない。大別すると、東部大西洋岸のあまり高くないアパラチア地域、西部太平洋岸の高く険しいコルディエラ地域、この両者に挟まれたカナダ北極海諸島とハドソン湾低地、カナダ楯状地(たてじょうち)(ローレンシア台地)、セント・ローレンス川沿岸低地、グレート・プレーンズ(内陸平原)の六つに分けられる。これらの地形の特徴は、大きくは地質構造と密接に関連する地形のタイプを示し、細かくはほとんどの地域が氷河期に大陸氷に覆われ、氷食作用の影響を強く受けた地形を示すことである。

(1)アパラチア地域 アメリカ合衆国アパラチア山脈の続きで、ニューファンドランド州、ノバ・スコシア州、ニュー・ブランズウィック州にまたがる。北東―南西の走向を示す古生層の地質構造を反映して、地形も同方向に連なる。ほとんどが標高500メートル以下の丘陵地と幅の広い谷で構成され、氷河期に覆った大陸氷の影響で氷河湖が多い。

(2)コルディエラ地域 環太平洋造山帯の一環である新期造山帯にあたる。中生代末以後の大きな造山運動により、地層は褶曲(しゅうきょく)、断層活動を受け大きく変位しており、カナダではもっとも不安定な地域である。地形のうえでは東部山地(マッケンジー山脈、ロッキー山脈)、中央台地、海岸山地(コースト山地、バンクーバー島など)の三つに分けられる。最高峰はローガン山(5959メートル)で、高い部分には山岳氷河がみられる。

(3)ハドソン湾低地 堆積(たいせき)以来ほとんど乱されずに、北に緩く傾く古生層からなる構造平野である。この延長部が北のビクトリア島、メルビル島などカナダ北極海諸島の低地に続いている。諸島東部の山地部には現在も氷河が広がる。

(4)カナダ楯状地 ハドソン湾を囲むように広がり、カナダの2分の1以上の地域を占める。地球上でもっとも古いといわれる先カンブリア代の片麻(へんま)岩、結晶質岩などで構成される安定した陸塊で、全体としてハドソン湾をくぼみの中心とし、周囲に高くなる楯を逆さにした地形(標高200~1000メートル)を示す。氷河期に広がった大陸氷の中心地域で、その影響を強く受け、無数の氷河湖がある。

(5)セント・ローレンス川沿岸低地 主として古生層からなり、地層はほとんど乱されていないが、地表は大陸氷の後退時に生じたうねりのある地形を示す。

(6)グレート・プレーンズ カナダ楯状地とロッキー山脈との間に広がる広大な平原。古生代~第三紀の地層が、西部のロッキー山脈山麓(さんろく)付近を除いてほとんど乱されずに堆積したもので、それが長らく侵食を受け、さらに地表は氷河期の大陸氷の影響を受けたうねりのある地形をみせる。

[大竹一彦]

気候

極(ツンドラ)地域西部、同東部、コルディエラ北部、同南部、内陸北部、ローレンシア北部、同南部、五大湖南岸、大西洋岸、太平洋岸、プレーリー、プレーリー中央部の12の気候区に分けられる。

(1)極(ツンドラ)地域西部 針葉樹林帯の北側にあり、年降水量250ミリメートル以下の乾燥したツンドラ地域である。7月の平均気温は10℃以下で、南部にみられるような夏はない。

(2)極(ツンドラ)地域東部 針葉樹林帯の北側にあり、年降水量400~500ミリメートルと西部に比べて湿潤である。7月の平均気温は10℃以下で、バフィン島の高い部分には永久氷がみられる。

(3)コルディエラ北部 山地部は極気候を示すが、谷底部は針葉樹林が広がる。気候は、緯度の変化よりも高度の変化により著しく変わる。中央台地地域は著しく乾燥している。

(4)コルディエラ南部 北部に似ているが、相対的に暖かい。

(5)内陸北部 針葉樹林帯北部にあたり、作物生育期は5か月以下、冬が長く、年降水量は少ない。

(6)ローレンシア北部 森林ツンドラ、針葉樹林帯の北東部にあたり、生育期は5か月以下、冬が長く、6か月以上雪に覆われる。

(7)ローレンシア南部 針葉樹林帯の南東部にあたり、年平均気温は6℃以上。冬は厳しいが、北部よりも短い。

(8)五大湖南岸 冬は相対的に温暖で短い。生育期は6か月以上あり、夏は長く、ときには湿潤で暑く、7月の平均気温は15℃を超える。

(9)大西洋岸 冬は相対的に温暖で、秋の終わりから冬にかけて降水が多い。7月の平均気温は15℃を超える。

(10)太平洋岸 カナダでもっとも温暖な地域で、最寒月の平均気温が0℃以上、7月の平均気温が15℃以上であり、生育期は6か月以上ある。年降水量も1000ミリメートル以上で、冬に多い。

(11)プレーリー 暖かい夏と寒い冬との較差が大きい。生育期は5か月以上ある。

(12)プレーリー中央部 プレーリーのなかでも夏はとくに暑く、雨は年降水量400ミリメートル以下と著しく少ない。

[大竹一彦]

植生

分布は気候区分と密接な関連があり、北極ツンドラ、高山ツンドラ、ロッキー山地森林(亜高山性森林)、山間地森林、漸移森林帯(森林ツンドラ)、針葉樹林帯(タイガ)、内陸混交林、東部混交林、ナイアガラ森林、太平洋岸森林、プレーリーの11地域に区分される。北極ツンドラはカナダの3分の1を占める北部地域にみられ、永久凍土に覆われる。高山ツンドラはコルディエラ地域の森林限界(1200~2000メートル)より高い部分にみられる。ロッキー山地森林は標高900メートルから森林限界にかけてみられる亜高山性森林で、おもな樹種はトウヒ、モミである。山間地森林はコルディエラ中央部にみられ、ベイマツなどが散在する。漸移森林帯は、ツンドラと針葉樹林帯の間をマッケンジー地区から大西洋岸まで広がる。針葉樹林帯は、内陸北部気候区とローレンシア北部気候区との南部を、アラスカとの国境からニューファンドランドまで広がり、マニトバ州以東では重要なパルプ材開発地域となっている。プレーリー北側の内陸混交林は針葉樹林帯の一部とみられている。東部混交林はローレンシア南部気候区にほぼ一致する。ナイアガラ森林はカエデ、ブナなどの広葉樹林帯である。太平洋岸森林は、温暖湿潤な気候のもとで、カナダでもっともみごとな森林地域となっており、ベイスギ、ベイツガなどを主とする針葉樹林がみられる。プレーリーは、北部のパークランドといわれる内陸混交林との漸移地域、その南の混合草原地域と短草原地域に分けられる。

[大竹一彦]

地誌


 1867年に東部4州が合併してカナダ連邦を結成したとき、人口330万のうち、オンタリオ州に46%、ケベック州に35%、ノバ・スコシア州に11%、ニュー・ブランズウィック州に8%が住んでいた。現在は6州を加えて10州、3テリトリー(準州)となる。大西洋岸から太平洋岸に達している。国土は東西5550キロメートル、南北4633キロメートルと広大である。人口の約90%はアメリカ合衆国と接する国土の約11%に集中しており、地理的には次の五大地域に区分される。

[三橋節子]

大西洋岸諸州

東部のプリンス・エドワード島、ニュー・ブランズウィック州、ノバ・スコシア州を含む沿海諸州にニューファンドランド島を加えた行政地域。低賃金・低成長の経済地域であり、旧習を固く守っていることでも知られる。地形的にはアパラチア褶曲(しゅうきょく)山系の北東部に属し、低い山や湾入海岸線に富む。石炭紀の水平層がニュー・ブランズウィック州東部、プリンス・エドワード島およびノバ・スコシア州北部の低地を占める。製紙・パルプ工場は、製品がおもに輸出されるため河口に立地する。都市の分布は林業に関連し、ニューファンドランド州のグランド・フォールズ、ニュー・ブランズウィック州のダルウージ、エドマンズタンおよびニュー・カッスル、ノバ・スコシア州のリバプールおよびシート・ハーバーはパルプ産業に依存している。商業的農業は大都市との交通の便に関連し、ニュー・ブランズウィック州やノバ・スコシア州およびプリンス・エドワード島に広がっている。ニューファンドランド州やノバ・スコシア州には小さな漁村が海岸沿いに散在している。集落は海岸沿いに発達し、人口5000~1万人程度で、多くの場合は1産業、1業種に依存している。ハリファックス、ダートマス、セント・ジョン、セント・ジョンズ、モンクトン、シドニー、フレデリクトンなど少数の都市には、製造、運輸、港湾、商業、行政およびサービス業などが存在する。

[三橋節子]

五大湖―セント・ローレンス低地

ケベック州とオンタリオ州を含む中央カナダ南部地域。カナダでもっとも重要な農業地帯であり、都市地域である。この狭い低地に全人口の半分以上が住み、工業製品のおよそ4分の3が生産される。人口10万以上の大都市がもっとも多く存在し、周辺の農地は、最大都市トロント(人口511万。2006)とモントリオール(人口364万。2006)の住民の食糧を生産する。地理的には国の中核地で、都市・工業・農業活動の密度が高いのが特徴である。ケベック州南部のフランス系集落とオンタリオ州南部のイギリス系集落の間には文化の差が現れている。ケベック州南部の田園風景は細長い農地に線状の村落が発達し、オンタリオ州南部の四角い農地に散村があるのと対照的である。7月の平均気温が20℃以上に達し、無霜期間が150日から175日あるため、国内でこの低地に栽培される特有の作物(タバコなど)がある。酪農業のための農地は乾草、牧草および飼料穀物の割合が高い。オンタリオ州南部は特産物により次の3地域に区分される。

(1)南西部の半島 カナダの大豆やトウモロコシの多くを生産し、都市周辺で野菜が栽培される。

(2)エリー湖北部の氷河デルタの砂地 タバコの主要栽培地域である。

(3)ナイアガラ半島の果樹栽培地帯 比較的広い園芸農業地域である。

 豊かな農地を背景として、この低地には各都市がそれぞれ特徴をもちつつ相互に関連しあっており、1000万人以上の人が住み、工業、商業、運輸、サービス、レクリエーション活動が密接につながっている。ケベック州南東部の交通中心地シャーブルックは、教育やサービス産業などの産業をもつ。ケベック市は政府、教育、宗教などのセント・ローレンス川下流地域での中心地的機能を果たす。オンタリオ湖西端のオシャワからハミルトン、さらに東にセント・キャサリンズやナイアガラ・フォールズ市へかけてのオンタリオ州南部は、都市が連合している。オンタリオ州南部の他の地域は大都市ロンドンを中心とした豊かな農地の中心にあり、サービス、商業、工業地域をもち、国際都市ウィンザーも南西部にある。

[三橋節子]

コルディエラ山系

メキシコからアラスカにかけて延びるコルディエラ山系には、ブリティッシュ・コロンビア州のほとんどとユーコン・テリトリー(準州)が含まれる。都市人口はブリティッシュ・コロンビア州南西部に集中し、60%に達する。海岸は気温が穏やかで、降水量が多く大木が生育するため大森林地帯が存在する。ブリティッシュ・コロンビア州の主要経済は林業である。第二次世界大戦後世界の林産品の需要が増し、鉄道や道路輸送の改良により、林業は内陸部へ発展し、プリンス・ジョージ、カムループスなどの交通の要地やブリティッシュ・コロンビア州南東部に林業関連産業が広がった。西岸の漁業のおもな漁獲はサケで、魚類の缶詰工場はフレーザーおよびスキーナ両河川付近に立地する。南東部は鉱物が豊富で、トレールの大精錬所へ種々の鉱石が運ばれ、クートネー地域は鉱山の主要集中地となった。1960年代後半から、日本の資本と市場はここの銅や鉄山の発展を促した。電力は最初、バンクーバーやバンクーバー島南部から供給されたが、送電技術の発達とともに遠距離から送電するようになった。たとえば南東部ではトレールの大精錬所や都市への電力はおもにクートネー川から供給され、北西部ではキティマットのアルミニウム大精錬所に供給するため、フレーザー川支流のネチャコ川にダムをつくり、ケマノで発電した。1960年代の終わりには北東部のピース川でも発電が開始されたが、長距離送電技術がこれを可能にしたのである。この地域の人口の半数は大バンクーバー都市地域に住み、10%はフレーザー川下流とバンクーバー島南部のビクトリア付近に住む。

[三橋節子]

内部平原

マニトバ州、サスカチェワン州、アルバータ州の西部3州に広がる平原地域。この地域は冬たいへん寒いが、南東部、南西部は比較的温暖な時がある。それは南東部ではメキシコ湾からの暖かい気団が数日寒波を遮るため、また南西部ではロッキー山脈東斜面から吹くシヌック(フェーン現象による乾いた暖風)が数時間から数日気温を上昇させるためである。人口はプレーリー草原に集中し、北部の広い地域は森林に覆われている。栽培作物は土壌分布と環境条件により異なる。アルバータ州とサスカチェワン州との州境の、降水量の少ない地域に褐色土が分布し、丈の低い牧草地となっている。褐色土の周囲に濃褐色土が分布し、降水量が若干増えるため丈の高い草地となり、小麦の栽培に適している。黒色土はその外側の半円地帯を形成し、年降水量は400~500ミリメートルである。肥えた土壌に恵まれたこの地域は、小麦に加えて飼料穀物、採油植物、牧草、牧牛などに適している。北に向かうにつれて土壌は黒色土からポドゾル(灰色樹木土)に変わり、混交林に覆われる。農作物はおもに小麦、飼料穀物、亜麻(あま)、採油植物、豆類で、四角く広い農地に少品種の作物を栽培する。鉱物資源は豊富で、カナダにおけるポタッシュ(カリ肥料)、石油、天然ガスおよび硫黄(いおう)のほとんどのほか、石炭、岩塩、石膏(せっこう)を産する。1947年にエドモントン近郊のレデュークに最初の大規模な油井が発見されて以来、新しい油井はパイプラインでつながれ、北西部はブリティッシュ・コロンビア州へ、北東部はアサバスカ地域へと掘削されていった。

[三橋節子]

北方地方

ハドソン湾の周囲に広がるカナダ楯状地にユーコン・テリトリー(準州)とノースウェスト・テリトリーズおよびヌナブート・テリトリーを加えた地域。ノースウェスト・テリトリーズは、イヌイットの地で木も資源もほとんどない北東部の北極地方と、現在は白人も住んでいるがもともとはアメリカ先住民の故郷で、資源開発の可能性があるマッケンジー川流域の亜北極地方とに分かれる。セント・ローレンス低地、オンタリオ州南部、プレーリーの北部には、荒野で土壌の少ない楯状地が国土の半分を占めて広がっている。楯状地の南端部は混交林で覆われ、北部の森林は大部分が針葉樹で、木材や紙パルプの原木を生み出している。1999年4月、ノースウェスト・テリトリーズの東半分を分離し、イヌイットの自治体であるヌナブート・テリトリーが創設された。

 19世紀末、鉄道の建設によりサドベリー盆地が開発され、20世紀初めにはコバルト(地名)に銀が、ポーキュパインとカークランド・レークに金が発見された。20世紀中ごろ、ラブラドルとケベックの境界線近くに鉄鉱山が開発され、ほかに金属や、サスカチェワン州北部ではウラニウムが開発され、小集落を形成している。楯状地は水力発電を可能にし、その電力で紙パルプ業や鉱業を発展させた。ラブラドルのチャーチル川やマニトバ州のネルソン川で大規模な水力発電が行われ、1970年代初め、ハドソン湾に沿って半円形状に発電所が建設された。

[三橋節子]

歴史


 現在のカナダの地域とヨーロッパ人との接触は紀元1000年前後に始まったと考えられている。しかし、本格的には、コロンブスのいわゆる「アメリカ発見」から5年後の1497年、イギリス国王ヘンリー7世がジョン・カボートにカナダ東海岸を探検させたのが始まりである。同じころからスペイン人、ポルトガル人なども北アメリカ沿岸を探検していた。1605年フランス人がノバ・スコシア付近に植民地の建設を試み、1608年ケベックに移動した。

 イギリス人の進出は1621年のノバ・スコシア植民地の建設とともに本格化し、ニューファンドランド、ニュー・ブランズウィック、プリンス・エドワード島などに、互いに独立した多くの植民地をつくった。ヨーロッパにおけるイギリス、フランスの対立を反映してカナダにおいても両国植民地間の抗争は激化し、1759年、1760年にイギリス軍がケベック、モントリオールを占領し、1763年のパリ条約でフランスのカナダ植民地はイギリスに割譲された。

 1861年、アメリカ合衆国に南北戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、カナダの諸植民地が分散状態のままではアメリカ合衆国に合併される危険もあるので、1867年「英領北アメリカ法」によって英領北アメリカ植民地は、自治領として統合された。1926年、他の自治領とともに完全自治をイギリス議会により認められ、1931年、主権国家としてイギリス連邦を構成することが法制化された。さらに1982年、「1982年憲法」がイギリス議会で可決され、独自の憲法修正権をもつことになった。その間、1949年には国の正式名称をカナダCanadaに改め、1965年には、ユニオン・ジャックを一部に用いていた国旗をメープル・リーフ(カエデ)に変えて、独自性を強めた。1993年に調印された先住民とカナダ政府による合意に基づき、1999年4月、先住民イヌイットの自治体であるヌナブート・テリトリー(準州)が、ノースウェスト・テリトリーズから分離して創設された。

[大原祐子・福田靖一]

政治・外交

憲法

カナダはイギリス国王を元首とする立憲君主国で、連邦制度をとっている。イギリスと同じく慣習法の伝統にたっているため、「1982年憲法」のほかにも、「英領北アメリカ法」を改称した「1867年憲法」をはじめ、憲法上の事柄に触れる過去の重要法令も維持している。

 1867年イギリス議会で制定された「英領北アメリカ法」は、部分的な訂正を加えられてはきたものの、百十有余年にわたってカナダ統治の基本法のもっとも重要な部分を占めてきたが、1920~1930年代に完全な独立を達成して以来、長らく現代政治との不適合性が問題とされてきた。連邦政府と各州政府は、この修正方法について何回もの折衝を重ねながらも合意に至らなかったが、1981年11月、ついに連邦政府とケベック州を除く9州の政府の間で条文化の合意が成立し、55年間にわたる懸案に決着がついた。決議案は1981年末カナダ連邦上・下院を通り、1982年にはイギリス上・下院で可決され、1982年4月17日、エリザベス女王臨席のもとに「1982年憲法」として公布された。この憲法は自主的に制定され、初めて「権利と自由の憲章」を明文化し、修正がすべてカナダでなされることを規定した点で、画期的である。

[大原祐子・福田靖一]

行政・立法・司法

連邦行政府は、イギリス国王の代行者としての総督(内閣の推薦によりイギリス国王が任命するカナダ人)と、首相を含めた閣僚(2008年10月時点で38人)をもつ内閣からなる。下院で過半数の議席をもつ政党の党首が総督の任命により首相となり組閣する議院内閣制度で、下院に過半数の議席をもつ政党がない場合には他の政党から支持を得て、下院で信任を得られると思われる党首を任命する。各省の大臣である閣僚は下院から、無任所大臣のみが上院から選任される。したがって、内閣は、不信任案の通過や重要法案の否決、または下院の任期(5年間)満了によって総辞職する。

 立法府もイギリス国王代理の総督と上・下両院で構成される。上院の議席は105で、75歳定年である。オンタリオ州とケベック州から各24名、ニューファンドランド州から6名、北東沿岸のニュー・ブランズウィック、ノバ・スコシア、プリンス・エドワード・アイランドの3州から計24名、西部のブリティッシュ・コロンビア、アルバータ、マニトバ、サスカチェワンの4州から計24名、ユーコン、ノースウェスト、ヌナブートの3テリトリーから各1名(計3名)を、地域代表として首相の指名により総督が任命する。上院は公共支出または課税を伴う法案の発議権をもたず、予算案も提出できない。

 下院の議席は人口比で変動するが現在は308(2008年11月時点)。選挙は小選挙区制で行われ、任期は5年。

 19世紀以来、自由党と進歩保守党で二大政党制を形づくってきたが、1993年10月の総選挙で進歩保守党が歴史的敗北を喫し、二大政党制は崩壊した。2003年進歩保守党とカナダ連合が合併して保守党となった。現在の政党議席数は保守党143、自由党76、ブロック・ケベコワ(ケベック連合)50、新民主党37、無所属2となっている(2008年11月時点)。ケベック連合は、1990年にフランス系の民族的権利を高めるために結成され、もっぱらケベック州を基盤としている。

 カナダの司法制度では連邦および各州にそれぞれ裁判所がある。

 連邦司法府を構成するおもな機関は連邦最高裁判所と連邦裁判所であって、前者は1875年、後者は1970年に創設された。後者は1875年の創設になるカナダ財務裁判所を受け継いだものであり、連邦政府に対する訴訟、税金関係、商標、版権、著作権などから生じる問題を扱う。連邦最高裁判所は連邦裁判所および各州の上級裁判所からの上訴を審理し、最終決定を行う。

 州の裁判所には、おもに刑事事件を扱い、少額の民事、少年・家庭裁判所も置く州裁判所と、とくに重大な刑事、民事事件を扱う上級裁判所、下級裁判所からの控訴を扱う控訴裁判所がある。

 商取引や財産権、家族間の問題など、民事を扱う法律は州によって異なっており、ケベック州を除く9州では裁判所が下す判例によるコモンロー(慣習法・判例法)に基づき、ケベック州ではさまざまな状況に対応した原則や規則を条文化した民法に基づいている。

[大原祐子・福田靖一]

州政府

地方行政府としての州政府の構成はすべて連邦政府に準じている。すなわちイギリス国王の代理として副総督が存在し、連邦政府における総督の役割を果たしている。行政府は議院内閣制であるが、立法府は上院がなく下院のみである。

 フランス系住民が大多数を占めるケベック州では連邦からの独立運動が盛んで、1980年と1995年に独立か否かを問う住民投票が行われた。ともに否決されたが、1995年の投票では独立賛成票が49%に達し、連邦政府を悩ませる問題となっている。

[大原祐子・福田靖一]

連邦制度の特徴

制度的な面と歴史的な面に分けて考えてみたい。もっとも重要な制度的特徴は、「英領北アメリカ法」の91条と92条に明記されている連邦政府と州政府の権限の分割である。連邦議会および連邦政府はカナダ全体にかかわる事項、すなわち防衛、課税による財源の調達、国家間および州間の通商、交通、通信、通貨の発行、先住民族およびその居留地の管轄等の権限が属する。

 一方、州議会および州政府に属する権限として、教育、財産権、病院、地方自治体の創設、裁判、天然資源の管轄、州のために使われる財源としての課税をはじめとして、州におけるすべての地方的・私的性質の事項があげられている。しかし時代の進展とともにこの分割はあいまいなものとなってきている。たとえば市民生活に関連の深い老齢年金などは、連邦政府の権限に入るのか、州政府の権限に入るのか、といった問題である。「1982年憲法」では、地域格差の是正や非再生天然資源の所属といった現代的な問題について明記されることが期待されたが、原則の表明にとどまっている。

[大原祐子・福田靖一]

外交

カナダは第二次世界大戦のときのマッケンジー・キング首相以来、大国でも小国でもない「中道国家」としての地位を確立することを目標としてきた。したがって、同じ北アメリカ大陸に位置する国としてアメリカ合衆国とは北大西洋条約機構(NATO(ナトー))、北米航空宇宙防衛軍(NORAD)を通じて密接な関係を保ちながらそれにふさわしい国防政策を採用してきた。すなわち、集団安全保障への参加と、約6万2500(2006)の兵力を擁するカナダ軍(陸・海・空軍を統合)の維持である。一方、外交的には、アメリカとは一線を画す政策がとられてきた。1960年代後半に展開されたベトナム戦争批判、1970年の中国との国交樹立はその例である。トルドー首相(1984年6月辞任)はこうしたカナダの路線を「第三の選択」とよび、カナダはアメリカ合衆国との間にもつ友好関係を、EC諸国とアジアとくに日本との間にも確立するとした。この線に沿って1976年には「日加文化協定」が締結され、日本とカナダの間の文化的交流が歴史上初めて活発化している。

 カナダにとって隣国アメリカとの自由貿易問題は、経済ナショナリズムや政治的自立の問題とも絡む論争の的であり続けた。1989年には保守党政府の主導で米加自由貿易協定が発効し、1993年にはメキシコをも含んだ北米自由貿易協定(NAFTA(ナフタ))が批准された。以後、対米貿易が好調となり安定した成長を続けてきた。また湾岸戦争時には国際連合に同調して兵を送った。イラク戦争への参加は拒否したが、国連やNATOによる平和維持活動(PKO(ピーケーオー))には積極的に参加している。

 このほかカナダは、歴史的伝統からイギリス連邦諸国、とくにイギリス連邦に属するアジア・アフリカ諸国との連携、あるいはフランス語圏諸国との交流が密であることが特徴的であるといえよう。

[大原祐子・福田靖一]

経済・産業


 カナダは建国以来、イギリスへの資源の供給地、イギリス製品の市場という植民地経済をとってきた。そのため、第一次世界大戦までの農業(小麦)拡大の時代(1900~14)には、主としてイギリスから長期投資を受けていた。しかし、第一次世界大戦後の工業発展期(1918~30)になると、国境を接するアメリカが直接投資によって企業を支配し始め、1926年にはイギリスの投資残高を超えるに至った。その結果、第一次産業への依存度はしだいに薄らぎ、製造業を中心とする工業が急速に成長していった。

 さらに、第二次世界大戦後には、政治的にもイギリスとの関係が弱まり、とくに鉱物資源の供給地として注目されて、アメリカ資本が投入され、アメリカとの経済関係が強化された。連邦政府も鉱物資源の探査と開発には多額の資本と技術が必要なため、世界それを受け入れた。またアメリカ企業は、イギリス連邦特恵関税を採用しているカナダに対して、輸出品に高関税をかけられるのを避ける目的で、カナダの製造業へ直接投資を行った。政府は外資、とくにアメリカ資本の支配を恐れて、1974年外資審査法を施行し、外国資本の進出に対し、その外資がカナダ経済に貢献するかを審査することになった。しかし1980年の国家エネルギー計画で、エネルギー関連の外国多国籍企業のカナダ化を遡及(そきゅう)的に行ったため、1984年の選挙で自由党政府は敗退した。1985年進歩保守党政府はカナダ投資法を制定し、新設カナダ企業および中小カナダ企業の買収は届出するだけでよくなり、外資が自由に導入されることになった。1989年には米加自由貿易協定が発効し、アメリカ・カナダ間の関税を10年間で全廃することによって、カナダへの投資に2億7000万人の市場を相手にする好条件が生じた。1994年北米自由貿易協定(NAFTA)が発効し、カナダ、アメリカ、メキシコ3国で3億6300万人(2007年には4億3700万人)の消費者となり、関税の引下げなどで北米地域内経済はさらに緊密になった。現在カナダは、複雑精巧な工業部門をもつ技術先進国であると同時に、原料や半製品の有数の輸出国でもある。国内総生産(GDP)は1兆4248億ドル(2007)、国民1人当りGDPは4万6000ドル(2007)となっている。

[三橋節子]

鉱物資源

カナダは豊富で多様な鉱物資源に恵まれている。カナダに国際競争力のある高度な製造業が発達したのも資源のおかげであり、その存在が世界市場でカナダを有利な立場に置いている。カナダの天然資源埋蔵量は世界第3位を占め、鉱物の生産量では、アメリカ、ロシアに次いで世界第3位、輸出額では第1位である。鉱物の輸出額は輸出総額の約13%を占め、生産量の半分以上が世界九十数か国に輸出されている。

 ウランの生産では世界第1位、金、ニッケル、アスベスト、タングステン、モリブデン、チタン、石膏(せっこう)、硫黄(いおう)、プラチナメタル、コバルト、鉛、マグネシウム、銅などでも世界上位生産国に入る(2006)。しかも開発可能埋蔵量は、以前の推定を超えて増加してきた。たとえば、1960年以前、ブリティッシュ・コロンビア州の銅生産高は記述するにあたらないほどであった。従来カナダの銅山では、含有量2%以下の等級のものは経済性がないため鉱石とはみなされていなかった。しかし、日本の銅需要を満たすため長期契約が結ばれると、広大な地域にわたって開発が行われ、含有量1%以下の鉱石もその対象となったのである。この結果、州の銅鉱石開発可能埋蔵量を大きく増加させた。しかしカナダの鉱山・精錬業の多くが外国企業の支配下にあり、とくに鉱山部門は外資の占める割合が多いという問題点がある。カナダでも資源ナショナリズムは高まり、とくに鉱物資源の場合には州政府に開発管理権が属しているため、資源をカナダで加工して製品として輸出すべきであるという加工度向上政策が、産業構造高度化政策の一環として唱えられている。しかし精錬所の建設には住民の反対があるうえ、市場が小さく経済性が低いため、精錬所が不足している。

[三橋節子]

資源の開発

近年大型資源開発プロジェクトが進行しているが、1980年10月、連邦政府が1990年までに石油を自給自足する国家エネルギー計画を発表し、これを達成するため大掛りな探査・開発に多額の予算をあてたことによるニューファンドランド州沖のハイバーニア油田は、連邦政府が支援した最初の巨大プロジェクトで、州都セント・ジョンズの東南東315キロメートル、平均水深101メートルにある。1990年に沖合いの設備の建設が始まり、1997年には生産が開始、2007年には日産37万バレルを産出した。また、1994年にはニューファンドランド州ラブラドル海のボアジー湾地域に、良質のニッケル、銅、コバルト埋蔵地域が発見された。鉱物含有率が高いことと、地表に近く露天掘りができるため、当時の世界生産高の15%が産出可能で、1999年に操業を開始した。サスカチェワン州北部のキー湖、クラフ湖およびラビット湖では、1960年代終わりからウラニウムを採掘している。同州北部サスカトゥーン市から670キロメートルのスィガー湖では、1990年代に入って平均7.7%含有の良質のウラニウムが450メートルの地下に発見され、大プロジェクトを開始している。

 カナダ西部のオイルサンドはカナダ最大の石油資源で、オイルサンドから得られる原油を含めたカナダの原油埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第2位の1806億バレルとされている。アルバータ州アサバスカ、ワバスカ、コウルド湖、ピース川に埋蔵されており、州北東部と中部の7万7000平方キロメートルに及ぶ。また、アルバータ州ではカナダで生産される石炭(2930万トン。2004)の約半分を産出している。ケベック電力公社は他州やアメリカにも電力を輸出している。州北西部ジェームズ湾地域の大規模な電源開発も行われている。カナダは世界有数の水力発電国で、発電量は世界第6位(2004)、電力輸出量は第2位となっている。

[三橋節子]

農業

カナダの農業は高度に専門化され、最新技術を駆使して生産性が高い。農地面積は約6750万ヘクタール(耕地・樹園地5211万ヘクタール、牧場・牧草地1539万ヘクタール。2005)、農業就業者数は約35万3000(2004)。農業人口の労働人口に占める割合は、2.1%にすぎないが(2004)、高度に機械化、商業化されているため、農水産物(食料品)輸出高は輸出全体の約5.8%に達している(2006)。全農地の5分の4を平原3州(サスカチェワン、アルバータ、マニトバ)で占め、農業・畜産業の中心となっている。農作物を収穫面積の広い順にあげると、小麦(865万ヘクタール)、菜種(582万ヘクタール)、大麦(405万ヘクタール)、オート麦(185万ヘクタール)、エンドウ(146万ヘクタール)、トウモロコシ(136万ヘクタール)、大豆(117万ヘクタール)、ヒラマメ(53万ヘクタール)などで、穀物や採油作物中心である(2007)。カナダ産小麦はパンの原料に最適といわれ、平原諸州でとれる小麦の約7割は輸出されている(2006)。また、飼料作物も広く栽培されている。

 穀物に次いで重要なものが畜産である。肉牛はおもに平原地方で飼育され、トロント、モントリオールなどの東部の消費地に出荷されるが、最近はオンタリオ州とケベック州でも飼育が盛んとなっている。飼育頭数順に、ウシ(1416万頭)、ブタ(1381万頭)、ヒツジ(88万頭)で、そのほかニワトリ、シチメンチョウなどの家禽(かきん)が1億7250万羽となっている(2007)。牛乳の約8割はケベック、オンタリオ両州で生産される。乳牛は加工肉の供給源ともなり、国内の食肉の4分の1を担っている。酪農品、鶏卵鶏肉、シチメンチョウも自給可能である。食料自給率はカロリーベースで145%(2003)である。またリンゴ、モモ、プラム、サクランボなどの果実栽培は、オンタリオ州のナイアガラ半島や、ロッキー山中のオカナガン盆地で行われている。

[三橋節子]

水産業

カナダは24万キロメートルの長い海岸線を有し、また東西両岸に広がる大陸棚は魚類の豊かな餌場(えさば)となり、年間約107万4000トン(2006)の漁獲量をあげている。大西洋沿岸ではタラ類、カレイ・ヒラメ類、ニシン、ロブスター、ホタテガイ、カニなど80万トン(2005)、太平洋沿岸ではサケ、ニシンなど25万トン(2005)の漁獲量がある。

 水産業従業者数は約12万人(1995)。連邦政府は1971年改正された領海漁業水域法に基づき、東西沿岸に漁業閉鎖線を設定した。また、その内側の水域約8万平方海里(27万4400平方キロメートル)を専管漁業水域とする総督令が発効した。これにより、大西洋岸ではセント・ローレンス湾およびファンディ湾全域、太平洋岸ではクイーン・シャーロット諸島およびバンクーバー島を結ぶ線の内側の広大な水域が含まれることになった。さらに1977年には漁業資源保護管理のため、東西両岸に200海里漁業水域を決定した。

 1990年代初頭大西洋岸の底魚が激減し、マダラ資源の危機が叫ばれた。1992年連邦政府はタラ漁の一時禁止を宣言した。カナダは環境と開発に関する国連会議(地球サミット)で、公海における漁船操業を抑制するための国連会議の開催を要求し、1993年の会議で、カナダや他の沿岸諸国は、200海里漁業専管水域を越えて移動する魚資源に対する沿岸諸国の権利強化を含む草案を提出した。

 カナダの水産物輸出高は36億8300万ドル、輸入高は18億4200万ドル(2006)である。

 1995年における日本のカナダからの輸入品目中、魚貝類は7.6%を占め、その額は8億8300万ドルで、日本の水産物輸入国の第8位に入っていたが、北米、ヨーロッパ、中国などでの魚貝類の消費量増加とともに、カナダからの輸入量は年々低下して現在は10位以下となっている。おもな輸入品目はサケ、イクラ、数の子、カニ、ロブスター、ニシン、ウニ、エビ類などである。

[三橋節子]

工業

1960年代以降は、アメリカ資本、革新技術の流入によってカナダの工業は質的に充実した。1970年代末、カナダの製造業の生産額は国内総生産(GDP)の4分の1に達し、その就業人口は総就業人口の5分の1に相当した。

 2003年の製造業の生産額は国内総生産の15.4%、就業人口は総就業人口の12%となっている。従業員数の多いものは、(1)食料品工業(食料、飲料)、(2)金属および金属製品業、(3)自動車および輸送用機械器具となっている。次いで紡織、衣類などのアパレル、化学製品、電気機械器具および通信装置、紙・パルプ、家具、スポーツ器具などである。

 カナダのパルプ生産量は世界第2位、紙・板紙生産量は第6位、新聞用紙生産量は第1位となっている(2002)。

 国内総生産(GDP)に占める割合が高い製造業の業種は、自動車、航空機などの輸送機械工業、電気機器工業、食料品工業、紙および紙製品工業、化学および化学製品工業、金属および金属加工業などである。GDPに占めるサービス業と製造建設業の割合は1995年には60%と25%であったが、2003年には72%と20%に変化している。近年は、工業製品のなかでとくにハイテク製品の開発・応用分野では世界市場の一角を開拓し、バイオテクノロジーと情報技術で認められている。自動車、電機、化学工業では、アメリカに本拠を置く企業の分工場化しているケースが多く、日本からも自動車工業が進出している。

[三橋節子]

貿易

2007年の貿易額は、輸出4174億ドル、輸入3782億ドルで、国内総生産(GDP)に占める総輸出額の割合が34%と貿易依存度(対外依存度)が高くなっている。とくにアメリカへの依存度が高く、輸出が79%、輸入が55%(2007)に達しており、輸出品目中原材料の比率が高く最終製品の比率が小さいことが特色となっている。

 輸出の主要品目は、自動車および部品、機械類、原油、天然ガス、石油製品、木材、新聞用紙およびパルプ、プラスチック、小麦などである。輸入の主要品目は、機械類、自動車関連、ベネズエラや中東からの原油、鉄鋼、医薬品、精密機械などが上位を占める。

 輸出相手国は1位がアメリカ合衆国(79%)、2位イギリス、3位日本、4位中国、5位メキシコである。

 輸入相手国は1位アメリカ(55%)、2位中国、3位メキシコ、4位日本、5位ドイツである(2007)。2007年の貿易収支は392億ドルの黒字である。

 カナダの重要な貿易品目は自動車で、2006年の輸出の17%、輸入の17%を占める。次は機械類で、輸出の13%、輸入の27%に及ぶ。エネルギー資源(原油、天然ガス)、農林水産品は全輸出額のそれぞれ15%、8.5%にあたる。

 日本との貿易では、2007年、輸出が99億6500万ドル、輸入が105億1000万ドルに達した。日本からの輸入は、1960年代は繊維品、雑貨、金属製品が主であったが、1970年代に入って乗用車、テレビ、カメラなどが急増し、1970年代末にはこれら機械類が60%を占めるようになった。一方、対日輸出では、1960年代は小麦、木材、パルプなどが中心であったが、1970年代には鉱石が急増し、1970年代末には金属原料、鉱物性燃料が40%を占めるようになった。ついで農産物、林産物が多く、水産物、畜産物も増大している。

 カナダの日本への輸出品目上位は瀝青(れきせい)炭、菜種、銅鉱、木材、豚肉、木材パルプ、メスリン、アルミニウム合金など。日本からの輸入品目上位は自動車および部品、飛行機、ヘリコプター等の部品、テレビカメラ、ビデオカメラ、デジタルカメラ等、プリンタ、複写機などとなっている。日本のカナダからの輸入の大部分が粗原材料で、最終製品の少ない点でカナダ側に不満を残している。

[三橋節子]

金融・財政
国際収支

1970年代のカナダの国際収支は世界経済の動きに左右された。すなわち第一次オイル・ショックによる1972年から1974年初めにかけての世界的な商品価格の急上昇によって、1973年には27億ドルにも上る商品貿易の黒字となった。しかし1973年後半、国際原油価格の4倍の引上げ後は、世界景気の急激な後退に影響されて、カナダの輸出も減退した。商品貿易の黒字は1974年に低減し、1975年には5億ドルの赤字に転じた。しかしそれ以降はふたたび黒字へ転換し、1977年には29億ドル、1979年には40億ドルに至った。これは、主要貿易相手国の景気回復が要因となっている。

 このようにカナダの財政は石油ショック以来歳入と歳出のアンバランスが続き、公的債務が増大し、そのうえ公債に対する利子が上乗せされてさらに多くの公的債務となり、財政赤字の削減が急務となった。

 1989年から1993年の間、カナダは財とサービスの輸入超過となった結果、赤字額は5年連続GDPの4%に近かった。しかしカナダの競争力が増大すると輸出は急増し、収支は1993年の30億ドル以上の赤字から、1994年にはカナダドル安も手伝って44億ドル、1995年は190億ドルの黒字となった。以後1997年より財政黒字を続けている(2007)。2007年は95億ドルの黒字で、累積債務の削減にあてられている。

[三橋節子]

財政政策

1971年に始まる経済成長期は、OPEC(オペック)(石油輸出国機構)の価格政策による世界的景気後退のため、1974年に終結した。カナダは生産と雇用の拡大を目ざして、財政・金融面で刺激政策に転じた。1974~1975年の景気後退は、多くのOECD(経済協力開発機構)諸国に比べて穏やかではあったが、高インフレが続いたため、1975年10月、3年間の賃金・物価統制政策と、名目需要の伸びを抑える政策をとった。その結果、実質GNPの伸びは維持され、インフレもピーク時(1975)より緩和された。しかし、1979年に始まる第二次オイル・ショックの国際的影響と国内外のインフレおよび金利の上昇に起因して、1980年には実質GNPの伸びが突如ストップした。主要OECD諸国では、このインフレ再燃に対し財政・金融面で引締め政策をとり、インフレ圧力を抑えることができたが、カナダでは、1982年以来実質GDP成長率はマイナス成長が続いた。

 1981年と1990年の不景気の際に、金融当局がインフレ抑制のために金利を上げた結果、各企業も工場や設備への投資を削減した。また1990年の景気後退時には、政府は歳出を削減した。OECDの多くの国も景気が後退したが、とくにカナダはGDPが急落し、失業率もOECD諸国より高かった。しかし3年後には回復の兆しがみえ、輸出が上昇し、GDPも上昇した。1993年12月、政府と中央銀行であるカナダ銀行は1995年から1998年までの期間のインフレを1~3%の範囲にとどめる目標を掲げた。そして1993年には経済成長率2.2%、1994年4.5%の高成長率を達成、1994年初めにはトロント株式取引所が史上最高値を記録した。しかし1994年12月のメキシコ危機以来、アメリカ経済の一時的成長率鈍化の影響を受け、1995年の成長率は2.4%にとどまった。財政赤字圧縮のため、1995年度予算は超緊縮型である。1996年の経済成長率は1.5%である。

 そのアメリカ経済の回復とともにカナダ経済の成長率も回復し、2004年には3.1%に達し、2005年から2007年は実質成長率3%前後を維持している。

[三橋節子]

対外援助

カナダは、世界貿易の拡大および開発途上国の経済開発の促進を目的とする各種の国際機構、国際的計画に参加し、国連開発計画、世界食糧計画、コロンボ計画などの主要メンバーである。1970年代末には11億6500万ドルを開発援助(ODA)に費やし、それは対GNP比で0.5%に相当した。このうち48%が二国間援助、42%が多国間援助、6%が非政府機関援助、3%が国際開発研究センターに割り当てられた。援助条件は無償援助の割合が大きく、開発融資の大部分は無利子、返済期間50年(据置き期間10年)という寛大なものである。配分はイギリス連邦のアジア・アフリカ・カリブ海諸国、フランス系アフリカ諸国に集中していた。

 1968年カナダ国際開発庁(CIDA)が設立され、政府援助計画の大半はここで扱われるようになった。1990年代初期、CIDAは政府開発援助の約75%を管轄し、残りの25%は大蔵省など他の連邦省庁や、カナダに本部を置く種々の開発機関を通して援助した。援助額では西側諸国中7位で、途上国に31億ドル余(国民1人当り約120ドル)GNPの約0.5%を低開発のアフリカ、アジアやラテン・アメリカ諸国に、補助金や拠出金として提供した。カナダ援助の半分近く(13億ドル余り)は二国政府間の援助で、開発計画やプロジェクト、人道主義的援助、食料援助、奨学金や訓練計画などにあてられた。16億ドル以上は、非政府組織(NGO)など内外の援助パートナーと、大学、労働組合、協同組合、企業、国際金融機関、多国間組織、研究機関などの計画に支出している。2007年は39億2200万ドルを政府開発援助(ODA)に支出している。対GNI比の0.28%で、世界の16位である。

 カナダ政府は1968年からNGOに、1979年から組織や機関に資金援助をしている。NGOの関係では、開発途上国との間で人と組織の連携を築いており、井戸掘り、保健衛生の基礎を教え、カナダへの留学生を受け入れるなど、多岐にわたっている。

[三橋節子]

交通

大部分の貿易は外洋に面した港湾や、セント・ローレンス川沿いの内陸港を通して行われる。大型深水港30、中・小の港および多目的埠頭(ふとう)が549あり、1992年には年間3億5100万トンに上る貨物を扱っている。1959年セント・ローレンス水路が開通し、小麦、鉄鉱石、石炭、石油化学製品などのばら積み貨物やコンテナ貨物の輸送が可能となった。北極海諸島などの遠隔地には、貨物船が石油、建築資材、食糧、衣料、日用品などを北部沿岸航路で運んでいる。日本への石炭輸出港として、1960年代に開港したバンクーバーの南のロバーツ・バンク港ではまにあわないため、北のプリンス・ルパートにブリティッシュ・コロンビア北東炭などの石炭ターミナルや、石油化学製品ターミナルを建設し、1980年代に完成して石炭を日本へ輸出している。さらにアジアの経済発展に合わせて、ロバーツ・バンク港を4倍に拡張し、コンナテ港も1997年に完成した。

 カナダでは、鉄道輸送のほとんどは、カナディアン・ナショナル鉄道(CN)とカナダ太平洋鉄道(CP)によって行われている。カナディアン・ナショナル鉄道は、8州とノースウェスト・テリトリーズに営業キロ4万5000キロメートルに及ぶカナダ最長の鉄道網をもつ複合輸送企業である。平原諸州の小麦や西部の石炭を、主としてバンクーバー(アジア向け)に輸送している。カナダ太平洋鉄道はカナダおよびアメリカに3万5170キロメートルの鉄道網をもち、穀倉地帯の小麦はバンクーバーとサンダー・ベイ(ヨーロッパ向け)に、アルバータ州南西部の石炭もバンクーバーに輸送している。ほかにカリ、鉱石、石油化学製品、木材などが専用列車によって運ばれている。二大鉄道のほかに78社に及ぶ鉄道会社があり、総延長およそ5万キロメートルで列車を運行させ、木材、鉱石をはじめとする地方の特産資源を輸送している。

 鉄道は他の鉄道・海運およびトラック会社と提携している。北米自由貿易協定(NAFTA(ナフタ))は、全輸送手段を使って南北の輸送を拡大している。1994年アメリカ合衆国への輸出は、トラック・鉄道・海運および航空の全輸送手段あわせて、金額にして23%の増加を示した。鉄道は東西にのみ走っているので、南北にも輸送可能なトラックに追いつくよう努力をしている。カナダ太平洋鉄道(CP)とカナディアン・ナショナル鉄道(CN)は、操業に適さない路線や支線を廃止している。双方ともアメリカの子会社と北米組織網をつくり、1994年CPはデトロイト川の地下のトンネルを大型貨車が通れるよう拡大し、それまで船で12時間かかっていたウィンザー市とデトロイト市間の所要時間を短縮した。1995年CNはオンタリオ州とミシガン州間の輸送のため、セント・クレア川の下にトンネルを掘り、所要時間を24時間短縮した。カナダの鉄道はトラック会社とも提携し、トラクター=トレイラーのコンテナが平らな貨車に積み込めるよう柔軟な対応をした。

 鉄道貨物輸送量は3183億トンキロ(2004)となっている(ちなみに日本は225億トンキロ)。

 旅客輸送は、1978年にCNとCPの旅客部門が統合し、連邦政府が出資してできたVIA鉄道が行っている。また、アメリカのアムトラックAmtrak(全米鉄道旅客輸送公社)が、シアトル―バンクーバー、ニューヨーク―モントリオール、ニューヨーク―トロント間を走っている。

 ハイウェーも輸送網の重要な一環を占める。総計140万8900キロメートル(舗装率40%。2004)の道路が国土を縦横に走っている。1962年に完成したカナダ横断ハイウェーは、ブリティッシュ・コロンビア州ビクトリアからニューファンドランド州セント・ジョンズまで全長7775キロメートルに及ぶ。高速道路も2万5000キロメートルを超えている。道路の半分以上は都市およびその周辺に集中する。また80キロメートルを超える旅行の9割近くに自動車が利用されている。1992年トラック輸送額は、アメリカ合衆国からの輸入額のおよそ80%、輸出額の半分を少し上回る額に達した。カナダのトラックは現在メキシコにも輸送でき、その途中でアメリカの貨物をも配送できるようになった。しかし逆に1994年のNAFTA発足以来、カナダ内でのアメリカのトラックの配送量が10%増加した。自動車輸送量は1848億トンキロ(2005)になっている(日本の自動車輸送量3350億トンキロ)。

 航空輸送では、エア・カナダ(AC)が国内・国際線に就航し、国内航空会社ではウェスト・ジェット、エア・トランザット、エア・カナダ・ジャズおよび1500を超える独立系の航空会社が航空サービスを行っている。旅客・貨物輸送のほか、農薬散布、牧牛などの移動、漁業、林業、建設・製造業、通信、探査、レクリエーションなどに利用されている。また、北極地方など僻地(へきち)では、航空機は人と物資を運ぶ重要な交通手段である。

 1995年、カナダとアメリカ合衆国は「開かれた空」協定を結び、カナダとアメリカの航空会社が国境を越えて、両国の2都市間を飛行することがほとんど無制限に行われるようになった。航空貨物輸送量は15億300万トンキロ、旅客輸送量は982億4100万人(2006)となっている。

[三橋節子]

通信

1870~1880年代に、大西洋岸から太平洋岸まで鉄道と電信線が敷かれて1874年にベルがカナダで電話を発明して以来、カナダの国土の広大さに起因する不便さが克服された。カナダの電話加入回線数は2100万回線(2007)で、電話普及率は全世帯の99%に達し、世界一といわれる。そのうち90%以上がデジタル化されている。

 光ファイバーによるネットワーク化が進み、ケーブルテレビ加入世帯数は769万世帯(2006)に上り、人口の92%がケーブル放送網によるニュース、ドラマ、スポーツ、音楽、通信教育、天気予報、テレビショッピングなどの多様なチャンネルの番組を視聴することができる。

 人口当りのインターネット利用者率は85.2%(100人当り85.2人が利用。2007)とオランダに次いで世界第2位。ブロードバンド加入率もオランダ、韓国、スイス、イギリスなどとともにトップクラスとなっている。インターネットバンキングの利用者数も多く、カナダのインターネット利用者率の高さはその利用コストが世界でもっとも低いという事情も寄与している。

 カナダの放送事業、ケーブルテレビ事業ならびに通信運輸事業の一部は、「カナダ・ラジオ・テレビ通信委員会」(CRTC)が規制する。テレビでは、民間テレビの放映時間の50%、公営のCBC(カナダ放送協会)の30%がアメリカからの輸入番組である。全人口の3分の2は、アメリカのテレビ番組を見ていると思われる。とくに全世帯の70~80%が有線化されているバンクーバーやトロントなどの大都市では、約80%が輸入番組か、アメリカのテレビ局から放映された番組である。

[三橋節子]

社会・文化

民族・言語

カナダは移民によってつくられた国である。17世紀に初めてフランス人が現在のカナダの地に植民地を建設しようとしたとき、出会った先住民はミクマク人であった。現在先住民族は1982年の憲法で認定された北米インディアン、メティス(先住民とヨーロッパ系の混血)、イヌイットの3つの民族で人口の約4%(2006)を占めている。

 先住民以外のカナダ人はすべて移民の子孫である。近年イギリス系、フランス系以外の民族比が増大して、ますます多民族化が進んでいる。2006年に行われた国政調査では、15歳以上人口の24%がカナダ以外で生まれた移民一世であった。民族的出身ではカナダ人という申告以外にイギリス系、フランス系に続いてスコットランド系、アイルランド系、ドイツ系、イタリア系、中国系、北米インディアン系、ウクライナ系、オランダ系が多かった。また、異民族間の結婚が増えて、複数の民族的出身を申告するケースも多い。

 カナダの公用語は英語とフランス語で、カナダ人の57%が英語を母語とし、22%がフランス語を母語としているが、21%は二つ以上の母語をもつか、中国語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ポーランド語、パンジャーブ語、オランダ語、タガログ語、ギリシア語、ベトナム語、アラビア語その他、英語、フランス語以外の多様な言語を母語としている。母語とする言語の多様さからも、カナダの多民族化が加速していることがわかる。

 フランス系カナダ人は、イギリス植民地の形成される150年も前からカナダに住み、19世紀なかばまでは多数派を占めていた。フランス系カナダ人の権利擁護、たとえば学校教育におけるフランス語の使用などを要求するフランス系の人々の運動は長い間続いていたが、とくに1950年代にはケベック州の近代化運動に伴って激化した。その結果1963年、ピアソン自由党内閣は二言語・二文化政府委員会を設置し、この委員会による調査と勧告に基づいて、1969年公用語法が制定された。英語とフランス語が初めてカナダの公用語として認定され、言語については建国以来の問題にいちおう結論が与えられたことになっている。

[大原祐子・木村和男]

多文化主義

公用語の問題とは異なって、カナダ独自の文化形成については、カナダ人を構成する多くの民族に、イギリスかフランスかという二者択一を迫るわけにはいかなかった。1971年、トルドー自由党政府は「多文化主義」をカナダの国是とする旨を発表した。1年後には多文化主義の推進を担当する国務大臣が任命された。政府の多文化主義政策はいろいろな局面で展開されている。大学における民族研究の奨励、国立公文書館での民族別資料収集から、さまざまな民族が自身の文化を維持し発展させ、他民族とそれを共有することを促進するための財政的援助など、枚挙にいとまがない。

[大原祐子・木村和男]

宗教

カナダの人口のおよそ80%をキリスト教徒が占める。1615年にフランスから初めて布教されて以来の伝統をもち、フランス系だけでなくアイルランド出身者にも信徒の多いカトリックが圧倒的に強く、信徒数は総人口の44%を占める。プロテスタントは29%を占め、長老派、メソジスト派、組合教会派が合同して形成されたカナダ合同教会、イギリス植民地としての歴史の長さを反映して、イギリス国教会などとなっている。また、メノナイト、アーミッシュといった厳格な教義を遵守するキリスト教少数派の存在がカナダ社会を特徴づけているのはアメリカ合衆国と同様である。

 その他の宗教としては、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、シク教、仏教などの多様な宗教の信徒がいるが、無宗教も16.5%(2001)となっている。

[大原祐子・木村和男]

地域格差

言語と宗教を軸とするイギリス系民族とフランス系民族の対立を、カナダの社会・文化の大きな特徴の一つとするならば、もう一つの大きな特徴は地域的相違の大きいことであろう。カナダには10の州があるが、17世紀初頭にフランスの植民地として発足し、1867年にカナダの一州となったケベック州、16世紀末にイギリス最初の海外植民地となり、1949年まで植民地であり続けたニューファンドランド州、あるいは20世紀初頭にようやく定住が開始され1905年に州となったサスカチェワン州とでは、その歴史は当然のこと、民族構成、経済構造、住民の気質などいろいろな点で異なっている。

 たとえばカナダ10州の経済構造の相違は、この10州を「もてる州」と「もたざる州」に分けている。カナダ全体の1人当り平均個人所得より多い個人所得を有する州はオンタリオ、アルバータ、ブリティッシュ・コロンビアで、この3州が「もてる州」、残りの7州が「もたざる州」ということになる。「もてる州」のなかでももっとも裕福であるのはアルバータ州であり、「もたざる州」の最下位に位置するのがニューファンドランド州である。同じカナダ人といっても州により生活水準に大きな相違が出ている。この個人所得の差は、カナダのOPEC(オペック)(石油輸出国機構)とよばれ、石油をはじめとして各種の鉱産物資源に恵まれているアルバータ州と、いまだに林産業、水産業の比重が高く、鉱業や鉄鉱石の産出を第一とするニューファンドランド州との、経済構造の違いにもっとも大きな理由を求めることができよう。

[大原祐子・木村和男]

教育

各州の相違を制度上顕著に示しているのが教育である。連邦制度をとるカナダでは、連邦政府に属する権限と州政府に属する権限がはっきり分かれているが、なかでも教育は州政府の権限に属し、連邦政府が関与しないことになっている。一般的には1年から6年までを初等教育、7年から11年までを中等教育としているが、たとえば、オンタリオ州の教育制度が13年間の初等・中等教育と3年間の高等(大学)教育となっているのに対し、ケベック州のそれは11年間と5年間に分けられている。

 義務教育は5、6歳から15、16歳までで、中等教育(日本の中学校、高校にあたる)までは、すべての公立学校でカナダ人と永住者は無償となっている。

 高等教育は有償で行われ、大学および特定の技術を身につけるための技術専門学校とコミュニティ・カレッジがある。技術専門学校とコミュニティ・カレッジは全国に約200校、総合大学は約100校となっている。

[大原祐子・木村和男]

音楽・絵画・スポーツ

巨大なアメリカの影に隠されている場合が多いが、今日のカナダは、音楽、絵画、スポーツなどの分野でも優れた人材や作品を輩出している。

 ポピュラー音楽では、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、ザ・バンド、レナード・コーエン、ブルース・コバーン、k・d・ラングなどの定評あるシンガーに加え、最近ではセリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムス、アラニス・モリセットなどが綺羅(きら)星のように続く。彼らの歌には、北国としてのカナダの風土、社会、人間が、さりげなく表現されることが多い。フランス系の「国民的歌手」となったジル・ビニョールをはじめ、イヌイット出身のスーザン・アグルカークやケルト系のシンガーのように、マイノリティ(少数民族)としての出自をあえて前面に出す人々もおり、これらは多文化主義カナダの特徴を多少とも反映しているといえよう。名ピアニストのオスカー・ピーターソンに代表されるモントリオール・ジャズ・フェスティバルも有名になっている。

 クラシック音楽では、すでに故人となったがカナダでの録音活動にこだわり続けた「幻のピアニスト」グレン・グールドが日本でも根強い人気を維持している。またモントリオール交響楽団も、NHK交響楽団の常任指揮者をも兼任するシャルル・デュトワのもとで、世界のメジャー・オーケストラの一つとなった。トロントには古楽器によるハイドン演奏などで知られる室内管弦楽団ターフェル・ムジークがいる。ほかにもカナディアン・オペラ・カンパニーやロイヤル・ウィニペグ・バレエなども活発な活動を続けている。

 映画でも、1939年に国立映画庁が創設されて以来、カナダはドキュメンタリーやアニメーションを含む独自の優れた作品を生み出している。トロントやモントリオールでは有名な映画祭が開催されており、トロント生まれの監督デイビッド・クローネンバーグは、日本でも人気がある。

 カナダ絵画としては、19世紀中葉に先住民の生活を描いたコーネリウス・クリーゴフやポール・ケインなどの作品が知られるが、真にカナダ独自の画風を創出したといわれるのは1920年代に、トム・トムソンを先達としてトロントを基盤に活躍した画家集団「グループ・オブ・セブン」である。先住民やほかのマイノリティ・グループも、民族的伝統とカナダ的風土を結び付けた作品を創造しつつある。

 スポーツの分野をみると、カナダの国技とよばれるほど絶大な人気を集めているのはアイスホッケーである。45万人もの若者がいずれかのアイスホッケー・チームに所属しており、彼らの多くがナショナル・ホッケー・リーグ(NHL)で競技することを夢みている。NHLは北米30チームで構成され、カナダではカルガリー、エドモントン、モントリオール、オタワ、トロント、バンクーバー、ウィニペグの7チームがある。スタンリー・カップを争うNHLの公式戦はすでに100年以上の伝統を誇っている。スケート、バイアスロンなどウィンタースポーツの人気は高く、多くのオリンピック・メダリストが生まれている。

 アイスホッケーのほかにプロスポーツとしては、野球、フットボール、バスケットボールの人気が高い。野球では大リーグ球団のトロント・ブルージェイズがあり、1992年と1993年にワールド・シリーズ2連覇を達成している。

[大原祐子・木村和男]

日本との関係


 カナダと日本の関係は、第二次世界大戦を境に、戦前は日本からの移民、戦後は通商を軸に考えることができよう。日本からカナダへの移民は1877年(明治10)が最初とされているが、急増したのは、1880年代後半ブリティッシュ・コロンビア州フレーザー河畔でサケ漁に従事すべく、和歌山県から漁民が移住を始めて以来である。一方、カナダ人が日本へきたのはもっと早く、1873年から宣教師が活動を開始していた。

 20世紀に入って日本人のカナダ移住は激増し、1907年(明治40)には一つの船で1200人近い日本人が移住したりしたが、この日本人人口の増加は、以前から存在したカナダ白人と日系カナダ人の軋轢(あつれき)をさらに悪化させ、この年の9月にはバンクーバーの日本人街襲撃事件が起こっている。こののち日本人の移住は制限されることになるが、1928年(昭和3)、外交主権をイギリスから獲得したばかりのカナダが日本と国交を樹立したのも、日本人移民問題の円満解決を図ってのこととされる。

 1941年、日本の真珠湾攻撃とともにカナダと日本は交戦状態に入るが、これでもっとも大きな被害を受けたのは、敵国人と規定され、西部海岸地域から強制的に立ち退かされた日系カナダ人であった。戦後の1949年(昭和24)に至ってようやく日系カナダ人への規制は解除され、1952年の対日講和条約の調印とともに日本とカナダの国交が再開された。1954年には「日加通商最恵国待遇協定」がオタワで調印された。

 1974年に田中角栄首相がカナダを訪問したとき、トルドー首相との間で、両国の関係を経済分野でも他の分野でも多様化させるべきことが合意された。経済分野に関しては、1976年に日本を訪れたトルドー首相と三木首相との間で、「日加経済協力大綱」が調印され、日加貿易の発展を評価する基礎となった。トルドー首相は、カナダとアメリカ合衆国の友好関係を、EC(ヨーロッパ共同体)諸国とアジアとくに日本との間にも確立する「第三の選択」を行い、1976年には「日加文化協定」を締結し、両国間の文化交流が活発となってきた。

 1986年には「日本とカナダの科学技術協力を推進するための二国間協定」に調印し、1989年にはカナダが「日本科学技術基金(JSTF)」を設立している。1988年には日本でカナダに関するノンフィクション作品の出版を奨励する「カナダ首相出版賞」(現在は「カナダ出版賞」)が設立され、日加関係に貢献する多くの書籍が受賞している。また1989年には「カナダ研究開発助成金プログラム」を開始し、カナダに関するセミナーの開催や、カナダ研究センターの開設を目ざす日本の大学を支援している。さらに1991年「日加フォーラム2000」を設置し、二国間関係を推進する施策の提言をしている。

[大原祐子・三橋節子]

『リッカー・セイウェル著、馬場伸也他訳『カナダの政治』(1973・ミネルヴァ書房)』『伊藤勝美著『フランス系カナダ問題の研究』(1973・成文堂)』『ドラモント著、公文俊平・長尾史郎訳『カナダ経済入門』(1977・日本経済新聞社)』『深尾凱子・菅原真理子著『モザイク社会の女性たち』(1980・ELEC出版部)』『ダグラス・フランシス著、木村和男編著『カナダの地域と民族』(1993・同文館出版)』『島崎博文著『カナダの土地と人々』(1994・古今書院)』『木村和男他著『カナダの歴史』(1997・刀水書房)』『加藤普章著『カナダ連邦政治 多様性と統一への模索』(2002・東京大学出版会)』『櫻田大造著『カナダ・アメリカ関係史』(2006・明石書店)』『日本カナダ学会編『史料が語るカナダ 新版』(2008・有斐閣)』『矢頭典枝著『カナダの公用語政策』(2008・リーベル出版)』『新川敏光著『多文化主義社会の福祉国家』(2008・ミネルヴァ書房)』『新保満著『カナダの素顔』(岩波新書)』『J. L. RobinsonConcept and Themes in the Regional Geography of Canada(1989, Tanlon-books, Vancouver)』


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改訂新版 世界大百科事典 「カナダ」の意味・わかりやすい解説

カナダ
Canada

基本情報
正式名称=カナダCanada 
面積=998万4670km2 
人口(2010)=3411万人 
首都=オタワOttawa(日本との時差=-14時間) 
主要言語=英語,フランス語 
通貨=カナダ・ドルCanadian Dollar

北アメリカ大陸の北半部を占める広大な国で,面積はロシア連邦に次いで世界第2位。立憲君主制の連邦国家で,10州provinceと2準州(テリトリーterritory)から成る。国名は〈村〉を意味するイロコイ・インディアンの言葉に由来するといわれ,日本では〈加奈陀〉あるいは略して〈加〉の字をあてることがある。国の象徴はビーバーとメープルの葉。

広大な国土は大西洋,太平洋および北極海に面し,南部国境と西部国境の大半はアメリカ合衆国に接する。国土の東半分にはハドソン湾を囲むようにカナダ楯状地が広がり,西の太平洋岸にはコルディレラ山系がほぼ南北に走る。そして両者の間は平たんな土地である。洪積世には国土のすべてが氷河におおわれていたため,全国いたるところに氷河湖がみられる。気候は寒帯,亜寒帯が圧倒的で,国土の半分近くをタイガが占めており,木材,毛皮獣などの資源に恵まれている。人口の90%以上が南の国境沿いの幅400kmの範囲に住んでおり,この地域は夏は十分に農耕が可能である。

 馬蹄形のカナダ楯状地は全体として丘陵・台地性で多数の氷河湖があり,亜寒帯に属する南半に針葉樹の森林が広がる。楯状地東部は高原・台地状のラブラドル半島で,ここはカナダ随一の鉄鉱石産地となっている。楯状地の南東側,セント・ローレンス・五大湖低地は,カナダで最も都市化・工業化の進んだ地域であり,全人口の約60%が居住する。セント・ローレンス川の東側,大西洋に面した地域およびニューファンドランド島は,アパラチア山脈の延長部にあたり,丘陵性の地形をしめす。森林が圧倒的で,人口は天然の良港が多い海岸部に集中している。楯状地の北側は北極海諸島で,バフィン島をはじめエルズミア島,ビクトリア島など,大小多数の山地・丘陵・台地性の島からなる。その大半は北極圏内にあり,1年の大半が氷雪におおわれ,各地に氷河が残っている。ツンドラ気候で山地部は氷雪気候に近く,開発はほとんど進んでいない。楯状地の西側から南側にかけての縁辺部には,グレート・ベア湖,グレート・スレーブ湖,アサバスカ湖,ウィニペグ湖,五大湖などの巨大湖沼群がある。これらは地体構造的に形成され,大陸氷河によって現在の形に変えられた。

 カナダ楯状地とコルディレラ山系の間には,平たんな土地が南北に長く続く。その南半部はグレート・プレーンズと呼ばれ,主としてステップ気候でプレーリー土壌がよく発達し,開拓前は一面の草原であった。春小麦栽培を中心とするグレート・プレーンズはカナダ第1の農業地帯である。内陸平地部は天然資源にも恵まれ,石油と天然ガスはとくに重要である。

 コルディレラ山系は大陸分水界のロッキー山脈と太平洋岸近くを走る海岸山脈Coast Mountainsの2本の主脈のほかに多数の山脈があり,その間に盆地や谷が広がっている。最高峰はユーコン・テリトリーのローガン山(6050m)。コルディレラ山系は高緯度に位置するため,高山気候を示すところが多い。この地方の大半は森林におおわれており,海岸山脈の西側では林業が盛んである。山脈の迫る太平洋岸はフィヨルドが多く,海岸に沿ってクイーン・シャーロット諸島やバンクーバー島がある。太平洋岸は西岸海洋性気候ないし地中海式気候を示し,高緯度のわりには温暖である。
執筆者:

アメリカ合衆国とカナダとの社会的相違を表現する場合,前者は民族の〈るつぼ〉であり,後者は民族の〈モザイク〉であると言われ続けてきた。〈るつぼ〉も〈モザイク〉も現在はその概念の有効性が問われているが,カナダの場合,民族が地域的に偏在していたことが,〈モザイク〉と表現されてきた一因であろう。例えばカナダの先住民であるイヌイット(エスキモー)は,極北に居住してきた。資源開発の波が押し寄せて伝統的な生活の放棄が迫られている現在でも,彼らがその居住地まで捨てるということはない。しかし同じく先住民であるアメリカ・インディアンはカナダ全土に居住し,総人口は白人到来以前の人口を上回っているとされる。

 現在のカナダの地に定住した最初のヨーロッパ人はフランス人である。彼らの末裔を主とするフランス系は全人口の29%(1971)を占め,カナダの人口増加に伴ってその比率は減少している。フランス系の77%がケベック州に,12%がオンタリオ州に,4%がニューブランズウィック州に住み,居住地域は東部に偏っている。一方イギリス系は,フランス系と異なってイギリス諸島,アメリカ合衆国から間断なく移民を迎えている。全人口比は45%で,カナダ全土に遍在するが,ニューファンドランド州,プリンス・エドワード・アイランド州,ノバ・スコシア州のように人口の大半がイギリス系であるという州は東部に多く,西部のマニトバ,サスカチェワン,アルバータの諸州ではイギリス系は州人口の半分以下しか占めていない。

 イギリス系,フランス系に次いで人口の多い民族はドイツ系,イタリア系,ウクライナ系である。このうちドイツ系,ウクライナ系はマニトバ,サスカチェワン,アルバータの平原3州に多い。彼らの故郷に似た風土をもつ地域に移住するためであろう。イタリア系は圧倒的にオンタリオ州に多い。

 アジア系民族は全人口の1.3%を占め,そのうち日系カナダ人は0.2%にすぎないが,比率としてはアメリカ合衆国と大差はない。オンタリオ(全日系人の42%が居住),ブリティッシュ・コロンビア(37%),アルバータ(12%)の3州にその大半が住む。カナダに日本人が初めて移住したのは1877年とされるが,彼らの歴史はアメリカ合衆国の日系人のそれと酷似していた。第2次大戦前はその9割以上が西海岸に住んで漁業,林業など第1次産業に従事した。20世紀初頭には日本人の大量移住がカナダ人の目に脅威とうつり,移住制限立法が実施され,第2次大戦中には強制移住,隔離収容も行われた。戦後日系カナダ人の居住地は東部に伸張し,医師,弁護士,建築家,官吏,学者などの専門職,あるいは商業,サービス業でめざましく活躍していることが注目される。

カナダの公用語は英語とフランス語であるが,国の〈モザイク〉的性格を反映して言語事情も複雑である。まずこの両言語を使えるカナダ人は全人口の15.3%しかいない。一方両言語とも使えないカナダ人も1.5%いる。この間に英語だけという人とフランス語だけの人が,約4対1の割合でいる。両言語を駆使するカナダ人の数は,連邦政府による2言語使用推進策で着実に増えてきている。しかし2言語を使う人の6割がフランス系であるという事実は,フランス系の英語人口の増加,フランス語勢力の衰退ともとらえられる。イギリス系の人口に比して英語の使用率が高いのは,新しい移民がまず英語を学ぶからである。フランス語使用問題はいわゆる〈ケベック問題〉の原因の一つであった。フランス語勢力の衰退という傾向を食い止めるべくケベック州は1977年,連邦最高裁の決定に反してフランス語のみをケベック州の公用語と制定し,両親が英語を母国語としない州民はフランス語で教育されることが決定された。

 国勢調査(1971)によれば,家庭で使用する言語のうち,英仏語以外で多いものは中国語(80%),イタリア語(72%)である。日系人の場合,日本語を母国語と考える人は約42%を占めるが,実際に家庭でも日本語を使っている人となると3分の1以下にすぎない。言語の上からみると日系人はカナダ社会に融合しているとみられるが,事態はそう簡単ではない。フランス語復権運動に示される少数民族の権利主張の結果,カナダは1971年から多文化主義を採用し,国家的規模で少数民族の文化・言語を保護・育成している。この動きの中で日本語・日本文化を捨てるならば日系人は帰属の場を失うということで,最近ではカナダ各地で振興策が講じられている。

衰退を憂慮されるフランス語と異なり,宗教の方は歴史の古いローマ・カトリックが優位を保っている。全人口の46%がカトリックであるが,これはフランス系に加えてスコットランド系,アイルランド系,イタリア系,ポルトガル系の人びとに信者の多いことがあずかっている。キリスト教の新教の方では1925年にメソディスト,長老派,会衆派の3派が連合した,カナダ特有の合同教会が全人口の17.5%を占め,英国国教会が12%の信者を得て第3位に位置している。以上のように宗教もフランス系とイギリス系という二大民族と不可分の関係をもち,各民族の文化ナショナリズムの核となってきた。

 広大な国土をもつカナダが,ヨーロッパで異端視されてきたキリスト教改革諸派の運動の場となったのは,アメリカ合衆国と同様であった。その中ではメノー派の勢力が大きく,主としてオンタリオ南部,マニトバ,サスカチェワン,アルバータに群居し,伝統的な反近代的生活態度を守っている。

1867年のイギリス領北アメリカ法は,教育は州の権限に属すると規定した。これはケベック州におけるプロテスタント・英語使用の人々と,他州におけるカトリック・フランス語使用の人々,つまり少数派の教育権を保護するためであったが,その後各州の情勢の変化により,教育政策はさまざまに変化を遂げた。宗教教育と少数派の言語を用いることを明確にした公立学校を分離学校separate schoolと称する。現在は2言語・多文化政策の下で,公立学校においては2言語教育が行われている。したがって,分離学校は公立学校でありながら宗教教育を行う学校を指している。分離学校の存在する州は,新教のそれがニューファンドランド,カトリックはケベック,オンタリオ,サスカチェワン,アルバータと,5州を数える。連邦政府内に日本の文部省に相当する機関がなく,教育行政権が各州に属しているので,教育年限,教科書,履修規定は州によって異なっている。義務教育は6歳から10年間であるが,実際には州により6・3・3制,あるいは7・5制がとられている。

 高等教育機関としてはコミュニティ・カレッジと大学がある。大学の数は67であるが,大学並みのコースを提供するコミュニティ・カレッジは400近くを数える。大学生はいわゆるパート・タイム学生が半数を占めており,働きつつ学ぶ,言い換えれば生涯教育の姿勢がカナダの高等教育の特徴である。大学では歴史の古いラバル大学,トロント大学,ダルハウジー大学,あるいは他地域と比較すると経済的に豊かな西部のアルバータ大学,ブリティッシュ・コロンビア大学などが有名である。

移民の国カナダは伝統的にヨーロッパ文化,とくにイギリスとフランスの文化的影響を濃厚に受けてきた。1867年のカナダ自治領の誕生は,同時にカナダ文化誕生の枠組みを用意するものであったが,政治的・経済的な国家建設に追われ,文化的成熟は達成しがたいものであった。その中で1890年代には文学(とくに詩歌)の黄金時代を迎えていることが注目される。一般にカナダ独自の文化と言えるものが誕生したのは1920年代以降で,〈グループ・オブ・セブン〉と呼ばれた画家たちがその嚆矢であった。彼らの絵はカナダの自然を,それも交通網の発達により今まで到達しがたかった北方やカナディアン・ロッキーを題材とし,カナダ的特徴を発揮しようとした。彼らの強調したのはヨーロッパ絵画からの決別であり,カナダの北アメリカ性を認識する方向をもっていたことに注目したい。

 第1次大戦後,外交上・経済上のイギリスの影響力が減少し,アメリカ合衆国に取って代わられたのと軌を一にして,文化面でも同様の事態が進行した。早くも1920年,マクメカンArchibald McKellar MacMechanはチューインガムから母の日を記念することにいたる,アメリカ大衆文化のカナダ浸透に警告を発したが,問題はカナダ人がむしろこの傾向を歓迎し,生活水準をはじめとしてアメリカ文化に追いつこうとした点にあった。

 カナダが文化ナショナリズムを発揮し始めたのは第2次大戦後のことであった。51年,のちに初のカナダ人総督となったV.マッセーの名をとって《マッセー・レポート》と通称されたカナダの芸術・文学・科学に関する調査報告書が出された。その中に盛りこまれた勧告により,文化的諸活動奨励のためにカナダ評議会が設立され,1930年代に設立されたカナダ放送公社Canadian Broadcasting Corporation(CBC)や国立映画局National Film Boardの活動は,大幅な進捗をみることになった。国家による文化振興という姿勢は,70年代にいっそう強化された。公用語法制定(1969)に結実した60年代のフランス系カナダ人の地位向上運動は他の少数民族にも連鎖反応をもたらし,それにこたえて連邦政府は71年に多文化主義の推進を決定したからである。翌年には具体策を実施する責任をもつ無任所大臣が設けられた。各地の少数民族文化の保護・育成がはかられる中で,先住民族アメリカ・インディアンの文化はとくに重視され,カナダ全土の博物館に彼らの高度に発達した文化を示す芸術作品,日用品が収集・展示された。しかしこうした国家によるカナダ文化育成は,文化の脆弱性をもたらすとの批判もある。《マッセー・レポート》以来30年ぶりに,82年に発表された《アプルバート・レポート》は,政府による助成を否定するものではないが,歴史的遺産の保存,現代芸術の振興,在外カナダ人芸術家に対する援助などの方策を勧告している。

 カナダ文化の存在を世界的に知らしめてきたカナダ人は枚挙にいとまがない。インシュリンの発見で知られるF.バンティングやC.H.ベスト,コミュニケーション理論のH.M.マクルーハン,ピアニストのG.グールド,あるいは経済学者J.K.ガルブレースや作家のA.ヘーリーのように活躍の場をアメリカ合衆国に移しているカナダ人,文芸評論家のN.フライ,文学者のM.アトウッド,作家のJ.コガワ,建築家A.エリクソン,画家D.A.コルビルらは,最近のカナダ文化を代表する人びとの一例にすぎない。

 一方,アメリカからの文化的影響の削減の方策については,1970年代に入り,《タイム》や《リーダーズ・ダイジェスト》といった雑誌やアメリカのTV番組に対する税制上の優遇措置の廃止などの具体策が講じられた。しかし,人口の大半がアメリカとの国境から200km以内に住み,共通の言語をもつ以上,コマーシャルをはじめとしてマス・コミによるアメリカ文化のカナダ文化への影響は不可避と言えよう。

 最後に現在のカナダが世界に誇り得る文化の一例をあげたい。それは広大な土地と少ない人口という国がらを反映して発達を遂げた通信技術である。既に実用の段階に入っている文字図形情報システム〈テリドンTelidon〉,世界一の普及率をもつケーブルテレビジョン(CATV)のほか,衛星や光ファイバーによる通信技術は,世界の先端をいっている。また広大な国土に不可欠な交通技術の発達もめざましいが,なかでもカナダ的であるのは,北極圏で活用著しい短距離離着陸機であろう。〈距離を文化の障害としない〉との合言葉こそ,現代のカナダ文化の特徴を示している。
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カナダ映画の最も顕著な特色は,長編劇映画の歴史がほとんどないのに対して,記録映画の製作が世界で最も盛んであるということである。1900年にカナディアン・パシフィック鉄道会社が映画部を設置してカナダの観光映画を製作し始めたときからカナダの記録映画の歴史が始まる(1965年のバスター・キートン主演の短編《キートンの線路工夫》はその観光映画のパロディになっている)。39年国立映画局(NFB)は,イギリスの記録映画の創始者として知られるジョン・グリアソンを所長として招き,グリアソンの指揮の下に活発な製作活動を開始,第2次大戦中に《カナダは負けず》《戦う世界》のスチュアート・レッグ(1910- )をはじめ数々の記録映画作家が輩出して,世界の記録映画の中心的存在になった。と同時に,グリアソンの下で,ノーマン・マクラレン,ジョージ・ダニングといった実験アニメーション映画の鬼才を生み,45年にグリアソンが去ったあとも,国立映画局はドキュメンタリーとアニメーションの創作活動の中心になった。長編劇映画の方は,1913年から39年までに製作された本数が70本足らず,60年にはわずか3本,60年代後半からやっと年間12本程度に上がってきたという貧弱さだが,これはカナダが地理的にアメリカに隣接した国であり,また英語が母国語の主体であるために,要するにアメリカ映画で〈まにあう〉という条件のためであった。事実,カナダは外国におけるアメリカ映画の最も重要な市場になっている。他方では才能のある監督が次々にハリウッドに吸収され,イギリスに次いでハリウッドの映画予備軍的存在になっている。アカデミー作品賞を獲得した《夜の大捜査線》(1967)のノーマン・ジュイソンをはじめ,シドニー・J.フューリー(《シエラマドレの決闘》1966),アーサー・ヒラー(《ある愛の詩》1970),シルビオ・ナリッツァーノ(《血と怒りの河》1967),テッド・コッチェフ(《地獄の7人》1983)といったハリウッドの職人的監督がカナダ出身である。しかし,1964年のカナダ・アメリカ合作による《ジンジャー・コフィーの幸運》(アービング・カーシュナー監督)のヒット以来,劇映画の製作も積極的になり,67年にはカナダ映画開発公団(CFDC)が組織され,毎年2000万ドルから2500万ドルが長編劇映画の製作援助資金として投資されることになった。その結果,年間製作本数も70年代には25本平均を達成するまでになり,《アーニー・ゲーム》(1968)のドン・オーウェン,《道を下って》(1970)のドナルド・シビブ,《暗闇にベルが鳴る》(1974)のボブ・クラーク,《ウィーク・エンド》(1975)のウィリアム・フリュエ,《パワープレー》(1978)のマーティン・バーク,そして〈内臓ホラー〉と呼ばれる特異な怪奇映画《ラビッド》(1977)などで注目を浴びたデビッド・クローネンバーグらが出た。一方,1950年代からフランス語圏のケベック州に新しい映画の胎動があり,60年代から70年代にかけてクロード・ジュトラ(《アントワーヌ伯父さん》1970),ジャン・ピエール・ルフェーブル(《最後の婚約》1973),ジル・グルー(《袋の中の猫》1964),ミシェル・ブロー(《命令》1974),ジル・カルル(《ベルナデットの本性》1972)といった〈ケベック映画〉の俊才が出て注目された。ジョアンナ・シムカス,ジュヌビエーブ・ビュジョルド,キャロル・ロールら,カナダからフランス映画に進出した女優の活躍も目だつ。
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日加間の民間レベルでの交流は,国家間の公式な関係樹立よりもはるかに早かった。1834年には宝順丸の漂流民が後のカナダの地にたどりついており,一方,イギリス領北アメリカから到来した例としては48年のR.マクドナルドが有名である。日本とカナダはほぼ同時に近代国家として出発したが,その後の日加交流の大きな部分は,日本人移民,カナダ人宣教師によって担われた。カナダへの日系移民の研究は最近非常に盛んになっており,1918年から18年間をバンクーバーで送り,鈴木悦とともに日系労働者の組織化に尽力した女流作家田村俊子の事績も明らかにされている。カナダから日本へ来住し教育・社会福祉に活躍した宣教師は1873年のG.L.カックラン,D.マクドナルドを皮切りとして,枚挙にいとまがない。カナダの外交官で著名な日本史家E.H.ノーマンもカナダ人宣教師の子息として1909年軽井沢に生まれた。ハーバード大学への学位論文であった《日本における近代国家の成立》また《忘れられた思想家--安藤昌益のこと》は,日本史研究に多大の貢献をなした著作であった。最近はカナダで生まれた日系カナダ人が,日加文化交流に果たしている役割が際だっている。北アメリカの文学関係の賞を独占したといわれるジョイ・コガワの《失われた祖国》はその顕著な例である。
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カナダの憲法は,イギリス法およびその修正条項,勅令,カナダ法とその修正条項,枢密院令,判例および政治慣習で構成される複雑な集合体である。そのなかで基本となるのはカナダの成文憲法である〈1867年憲法法〉と〈1982年憲法法〉である。憲法法とはカナダの憲法ないし立憲体制を構成する制定法を意味する。前者は,かつてイギリス法の〈イギリス領北アメリカ法British North America Act〉と呼ばれたもので,カナダの統治機構を定めたものである。同法はイギリス法であるためにその改正権限がイギリス議会にあり,連邦結成以来115年間における23回の改正には,カナダ議会からのイギリス議会への改正要請という手続きを必要とした。イギリス議会による1982年カナダ法の制定により,カナダ憲法の改廃権がイギリス議会からカナダに完全移管し,同時にイギリス議会は以後カナダを拘束するいかなる立法も行わないことになった。他方カナダ議会は1982年憲法法に〈カナダ人権憲章〉を導入したので,カナダの憲法は,諸外国と並ぶ一般的な立憲制度にならう憲法典をもつことになった。

 カナダは統治機構として連邦制をとるが,その基本規定は1867年憲法法に定められたものである。同法は州の専属権限として,教育,保健,道路,地方財政,財産権および市民権など地方的・民事的事項に関し16項目を定めている。それに対し,通商,国防海運,漁業,郵便,通貨,航空,度量衡など全州共通事項を連邦の専属権限とし,州権限に規定されない事項を含む立法の一般権限を連邦政府に与えている。それは,カナダ連邦の創設期がアメリカ合衆国の南北戦争と重なったため,当初カナダの連邦政府権限をできる限り包括的なものにしようとする意向が強く働いたためであった。しかしその後,とくに大恐慌以降の政府の機能拡大にともない,各種行政の管轄をめぐる連邦と州との権限争いが司法判断に求められることになった。1950年カナダ最高裁判所が最終審とされるまで,カナダの憲法審査はイギリス枢密院司法委員会が最終審とされ,その裁定によって連邦よりも州に多くの権限が認められてきた。そもそも州政府は憲法上連邦政府に従属するものではないが,憲法に関する司法判断の積重ねの結果としてカナダの連邦制度は州権が強まり,分権的なものに発展していった。

 このほかカナダ憲法を構成する法令のなかで重要なものには,イギリス議会が自治領の管轄事項に関する立法を行わないとして,自治領の外交と国防に関する権限を認めた1931年の〈ウェストミンスター憲章〉,ならびに州内賦存資源に関する州の所有権を確認した判例などがある。

 立憲体制を構成する政治慣習で重要なものは責任政府の原則である。これは議院内閣制という政治制度の基本をなすものである。つまり政府(内閣)は,選出議会(下院)で過半数ないし最大の議席数をもつ政党により組織され,議会に対してのみ責任を負うというものである。内閣は下院の支持を失った場合,総辞職するか議会の解散により総選挙を実施しなければならない。カナダの憲法慣習によれば,議会による内閣不信任は,不信任決議の採択のみならず,政府上程の予算案や重要法案の否決によっても成立したとみなされる。この原則とそれにもとづく内閣制度に関しても制定法はなく,内閣や首相の職席は政治慣習にもとづき存続しているものである。

カナダはエリザベス2世女王を元首とする連邦制の立憲君主国家である。形式的に政治権力のすべての執行権は女王に帰属するが,〈君臨すれども統治せず〉というイギリスの憲法慣習がカナダでも踏襲される。エリザベス女王はイギリス女王であるが,カナダの立憲制度上はカナダの女王も兼任している。それゆえカナダに不在中の女王の地位は連邦においては総督Governor-General,州にあっては副総督Lieutenant-Governorに代表される。1952年に初のカナダ人総督が就任して以来,総督および副総督は内閣によって任命される職席となり,任期は5年である。総督は枢密顧問官やその他官吏の任命,議会の召集・解散,法案の裁可を行い,軍を統帥し,各種の行政命令を発令するが,これらは枢密院の助言により実施される。このような形式的執行権をもつ総督の地位は,憲法上〈枢密院における総督〉として明確に規定されている。

 枢密院は女王の諮問機関であるが実体はなく,実際には枢密院の一委員会というべき内閣に掌握されている。閣僚はすべて枢密顧問官に任命される。内閣には首相のほかに,法務,国防,外務,財務,人的資源,保健,農業,通商,産業などの閣僚がおり,それぞれの行政機関を所管している。連邦政府には閣僚以外に閣外相や無任所相がおかれる場合もあるが,1990年代初頭の行政改革により省庁の数が減ったため閣僚ポストも削減された。

 州政府も,連邦と同じ責任政府の原則による議院内閣制がとられ,州首相の組織する内閣を軸に運営される。州首相には州議会の第一党の党首が副総督により任命される。準州の行政は連邦直轄とされ,連邦政府の任命する弁務官Commissionerが責任を負うが,準州議会をとおして住民の意思も反映される。

 カナダの議会制度において議会は女王と院とにより組織される。連邦議会は任命制の上院と選出制の下院との二院制をとるが,州議会はすべて一院制である。下院と州議会は普通選挙で選出される議員により構成される。カナダの議会制度の重要な特徴として,下院(選出議院)の優先性があげられる。これは責任政府の原則を具体化するものであり,下院は予算や税法など金銭法案の先議権とともに,憲法改正手続き上の特別権限が憲法上保障されている。下院議員の任期は5年であるが,多くの場合ほぼ4年で議会が解散され,選挙が実施される。選挙は1議席1選挙区の小選挙区制による総選挙の形で行われる。下院の定員と選挙区の区割りは10年ごとに国勢調査にもとづき人口に比例するよう調整される。人口の最も少ないプリンス・エドワード・アイランド州の議席を保障することになっているために,定員が増加することも珍しくない。選挙権は18歳以上のカナダ市民および女王の臣民に与えられる。上院議員は内閣の助言により総督が任命し,その任期は75歳までである。上院議員の任命は,任命時の与党色が強く働くが,全国的な地域間のバランスは考慮される。

 議院内閣制の政体において政党は不可欠の存在である。カナダの政党は連邦と州のレベルに二分される。連邦議会に議員を送ったことのある政党としては,自由党,進歩保守党,新民主党,社会信用党(クレディスト党)のほかに1980年代末から90年代初めに急伸してきた改革党とケベック連合があげられる。これらのうち政権担当の経験をもつのは自由党と進歩保守党である。自由党は中産階層とカトリック,少数民族に支持基盤をもち,対外政策面でナショナリズム傾向が強く,経済的には社会福祉や地域経済開発を重視する姿勢を示してきた。進歩保守党は高所得層と産業界に支持され,かつては対英協調を掲げてきたが,1980年代後半以降のマルルーニー政権は新保守主義路線を進めた。自由党と進歩保守党はたがいに連邦政治におけるライバル政党といえるが,今日では政策上の違いはほとんどない。新民主党はかつての協同連邦党とカナダ労働会議の統合により生まれた社会主義政党であるが,最近は社会民主主義的立場に移行した。同党にはカナダの良心と讃えられたスタンレー・ノウルズStanley Knowles(1908-97)のように公正で倫理感のしっかりした議員が少なくなかった。社会信用党は平原州を地盤に,キリスト教の信条から財政改革による福祉の向上を主張した保守主義的政党である。クレディスト党はそのケベック分派である。この政党は戦後の連邦政治へ影響力をほとんどもたなかったが,80年代末から西部で勢力を急拡大してきた改革党はこの系列に属する。ケベック連合はケベック州の分離独立を進める地域政党である。州レベルでは,これら4党とともにケベックのケベック党が,いずれかの州で政権を担当した。カナダの政党は党名が連邦政党と州政党で同じでも,政策上の立場や利害関心の異なる別政党であることが多い。

 司法制度は連邦法と州法とをともに執行する単一のシステムとされ,判事の任命は連邦政府の権限である。とはいえ,民事法がケベック州は大陸法系であるのに対し,英語系諸州はコモン・ロー法系であるため,判事の任命には法系のバランスが考慮される。

広大な国土をもちながら相対的に人口の少ないカナダにとって,第1の政治の争点は,国家的統一と連邦体制の再編という問題である。1970年代以降はケベック分離主義の勢力が拡大してきた。76年にケベック州の政権を握ったケベック党は,政治的なケベックの〈主権〉の確立と同時に,カナダとの経済連合を維持するという〈主権連合〉構想を掲げてきた。82年の改正憲法に関して,ケベック州だけが批准しないという変則的事態が生じた。ケベック州が受入れ可能な憲法改正は,連邦政治において80年代後半から90年代前半にかけて最大の争点となった。87年4月に,ケベック州を〈独自の社会〉と認め,同州に特別の権限を与える〈ミーチ湖協定〉が成立したが,90年6月までに全州の批准がそろわず失効した。1992年には,ケベック州の要求のみならず先住民による自治政府樹立および西部諸州の主張する上院改革などを取り込んだ〈シャーロットタウン協定〉が成立した。この協定の発効には国民投票が必要とされたが,反対票が過半数に達したため廃案となった。95年にはケベック州で〈主権〉構想に関する州民投票が実施されたが,僅差で反対票が過半数となり否決された。このように,ケベック州はカナダ憲法の批准をしないが,分離独立もしないというアンビバレントな状況にあることが明らかになり,カナダの連邦体制再構築の困難さを示した。

 憲法改正活動のなかで唯一の成果は,北西準州の中部・東部を分離し,先住民自治政府の統治する新たな準州の設置に関する合意が成立したことである。99年には1万7000人のイヌイットの居住するこの地域にヌナブト準州が創設された。

 第2の政治の争点は,政府財政赤字の削減と政府組織の縮小である。第2次世界大戦後,カナダの連邦政府は先進的福祉国家の形成を目ざし,政府組織を拡大してきた。政策的にはカナダ全土を均等にカバーする健康保険制度と年金制度を確立し,また低所得州の福祉を保障するため高所得州からの所得移転を図る平衡交付金制度も導入された。しかし1980年代末から政府財政赤字の削減が連邦と州とを問わず大きな政治的争点となってきた。このため連邦政府では国有企業の民営化や連邦消費税の導入とともに集配部門を除く郵便事業の民営化などの行政改革や政府組織の縮小が実施された。

 州政府によっては行政サービスの見直しや有料化,料金改訂,受益者負担の導入が進められている。しかし,過疎地の多いカナダにおいて〈小さい政府〉の実現は,国民福祉の低下を招くのみで,行政の効率化につながるかどうか疑問視する向きも多い。

 第3の争点としては,政党の影響力の低下と州政治における政権交代の活発化があげられる。経済構造の変化と〈小さい政府〉の時代を迎えた90年代に入って,自由党を除く既成政党の影響力は低下した。代わって台頭してきたのが,連邦レベルではケベック連合や改革党のような地域政党である。州政治ではオンタリオ州のように42年間続いた保守党政権から自由党,新民主党,進歩保守党と1985年以後3回も政権が交代した州や,与党党首が2回交代したアルバータ州のように政権交代が著しい。同様の事態は他の州でも頻発している。政党以外の非営利団体の影響力が高揚しているという新たな傾向も現れている。シャーロットタウン協定の形成過程では,女性の地位向上を目ざす全国的団体や先住民の全国組織などの活躍が注目された。

 第4の争点は,対外関係ないし外交政策である。第2次大戦後のカナダの外交政策の特徴は二国間関係における対米重視と,多国間関係における普遍主義である。対米関係ではとくに安全保障政策で,アメリカ合衆国との共同防空協定にもとづく北米防空司令部(NORAD)設置があげられる。多国間外交でも安全保障政策ではカナダはNATO結成でアメリカ合衆国以上のイニシアティブを発揮した。国連を中心とする国際機関の活動でカナダは積極的役割を発揮し,国際民間航空機関(ICAO)や国連環境計画(UNEP)の創立に寄与したし,1956年のスエズ危機に際して国連平和維持軍の創設と派遣を提唱して以来,みずからも部隊を派遣するなど国連のPKO活動に貢献してきた。しかし80年代後半にはカナダの経済的利益の確保に外交政策の目的が集中するようになる。アメリカ合衆国との経済統合という選択はカナダで最も議論の激しい争点であったが,88年には両国間の自由貿易協定(FTA)が締結され,翌年初めに発効した。この自由貿易協定は10年をかけて貿易と投資を完全自由化し,カナダとアメリカ合衆国の市場統合を達成しようとするものである。その後この構想にメキシコが参加したため,3国間で交渉が進められ,92年に北米自由貿易協定(NAFTA)が締結された。この協定は94年に発効した。加えてカナダはサミット会議,APEC,GATT/WTOのメンバー国としても活発な活動を行っている。
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人口規模に比較して相対的に豊富な天然資源を保有するカナダは,主要な原材料輸出国であると同時に,世界有数の工業国として,高い生活水準を享受している。この農工兼備のカナダは,今日,国内総生産(GDP)の30%近くを輸出に依存する貿易国家である。また国際的な立場からみて,カナダはG7のメンバーとして,さらにアジア太平洋経済協力会議APECの主要メンバーとして,日本とのつながりは非常に深い。

 カナダの豊かな生活を支えている産業基盤は,基本的には,資源および資源関連産業と,通信機器や医療機器に代表される技術集約産業である。カナダの豊かな資源はじつに多種多様である。その第1は鉱物資源である。銀,亜鉛,ニッケル,石綿,銅,セレン,ニオブ,ウラン,鉄鉱石といった主要鉱物において,カナダは世界屈指の産出量と輸出量を誇っている。またエネルギー部門でも,豊富な包蔵水力に加えて,石炭,石油,天然ガスの埋蔵量は世界のトップレベルにあり,将来,中近東諸国に代わる主要なエネルギー資源の保有国と目されている。第2の資源は,西部平原州の小麦穀倉地帯に代表される農産物資源であり,世界の五指に入る食糧供給基地として注目されている。第3の資源は,国土の44%を占める広大な森林資源である。それがカナダを世界有数の林業国に仕立て,木材,紙パルプ,新聞用紙の輸出に伝統的な強さを与えている。そして第4に,カナダは世界三大漁場の一つ,大西洋岸ニューファンドランド沖と,世界最大の内陸淡水域を擁する水産資源に恵まれている。そのためカナダは,ニシン,タラ,サケ,イカ,ロブスター,サバといった主要水産物の輸出額で世界最大を誇っている。資源の豊かさは,長い間カナダを原材料の主要輸出国に仕立ててきた。しかし,近年のカナダの経済構造の変化に伴って資源の加工度が著しく向上したため,1970年代後半以降,資源そのものの輸出は相対的に低下し,輸出総額の20%程度にまで落ち込んでいる(1963年には40%)。また産業全体に占める資源部門の従事者の割合は5.6%程度に縮小している(1963年には13%)。

 カナダの場合,豊かな資源の賦存状態が経済・社会の発展を大きく規定してきた,という事実は重要である。というのは,カナダの経済発展の歴史は,魚類,小麦,紙パルプ,鉱物といった特殊なステープル(主要産物)の開発とその輸出によって説明されるからである。コンフェダレーション(連邦結成,1867年)から第1次世界大戦前にいたる工業化の時期には,西部平原州の穀倉地帯の開発とその穀物輸送のための鉄道敷設が,ヨーロッパやアジアから膨大な移民を受け入れ,同時に巨額の外資を引きつけカナダ経済の発展の基礎を形成した。両大戦間期には,カナダはアメリカの資本と技術を導入して森林,鉱物資源の開発にあたり,以来アメリカとの経済的連携が強化されたのであった。

 資源に依存したカナダ経済のもう一つの特徴は,貿易と外国資本への依存が著しく高いこと,しかもその両方の分野で対米依存が高いことである。今日,カナダの輸出の80%はアメリカ合衆国市場に向けられている。対米依存の起源は,第1次大戦前に遡る。カナダは,コンフェダレーション以来一貫して,資源開発と製造業の保護育成を図り,希少な資源であった資本と技術を,イギリスとアメリカ合衆国から大量に導入する方策をとってきた。第1次世界大戦にいたる工業化の段階は,カナダはもっぱら証券投資のかたちで借用したイギリス資本に依存して,鉄道建設を中心とした輸送,通信などの基礎的経済基盤の整備拡充に力を注いだ。この時期,カナダはみずからを大英帝国の一員と位置づけ,イギリス本国に対しては食糧の供給基地として,またイギリス産業家の繊維製品のはけ口として,英帝国特恵関税制度を通してイギリスとの緊密な貿易関係を樹立していた。しかし,第1次世界大戦以後は,イギリスがスカンジナビア3国との貿易を密にしていくのにつれて,カナダはイギリスを離れ,徐々に対米接近政策を強化していったのである。その橋渡し役を演じたのがアメリカ企業のカナダへの直接投資であった。

連邦結成以来,カナダの歴代政策担当者は,資源開発に傾注する一方,高率保護関税政策を採用して製造業の育成を積極的に図った。雇用の拡大と生活水準の向上のためには,製造業の発展は焦眉の急務であった。時には高率関税を外国企業誘致の手段として用いた。その結果,アメリカ企業の進出は資源部門で顕著であったが,製造業部門でも,たとえばカナダ産業の中心となりつつあった自動車産業で,アメリカ三大メーカー(ビッグスリー)のフォード,GM,クライスラーが,それぞれ1904年,18年,25年にカナダに子会社を設立し,カナダ自動車産業を支配した。また,当時のニュー・インダストリーといわれた化学・医薬品などの産業部門でも,アメリカ企業のカナダ進出は活発であった。外資優遇策を講じたカナダと,資源を求め,かつまたカナダの関税を回避してカナダ国内に工場設置を意図したアメリカ企業との利害の一致は,すでに両大戦間期に資源部門と製造業部門の主要部門で,アメリカ企業による大規模な所有と支配とを招いたのである。またアメリカ親会社と在カナダ子会社との間の企業内貿易は,加米貿易の構造を規定した。ただし,運輸,通信,新聞,出版,電力,金融などの基幹産業においては,外資の進出は禁止された。カナダが過度な対米依存を継続した主たる理由は,〈分工場経済=アメリカ系企業の子会社によって支配された経済〉で知られるカナダ産業に網の目のように張り巡らされたアメリカ系子会社の活動が,雇用機会の拡大と,それに伴うカナダ国民の生活水準の向上に大きく寄与したばかりではなく,カナダ産業の技術水準の向上に貢献したからである。

 外資支配にかかわって,カナダ経済の特徴として指摘できるのが,静かではあるが根強い経済ナショナリズムの存在である。国民経済の独立と国家主権の保持を唱える(イギリス)ナショナリズムの動きは,68年に外資の支配状況を分析した《ワトキンス報告》が出版されてから次第に活発化し,〈産業のカナダ化〉問題が全国的規模で自覚され,外資の是非が広く論じられた。それが政策として実現したのがピエール・トルドー自由党政権下においてであった。73年に,〈外国投資審査法〉Foreign Investment Review Act(施行は1974年,75年)が成立し,雇用機会の拡大や資源加工度の向上,それに技術開発の促進などの〈カナダ経済に顕著な利益をもたらす〉外資のみが認可されることになった。またそれに先立つ1971年に,カナダ企業の乗っ取り防止とカナダ人所有企業の強化育成を図るためにカナダ開発会社Canada Development Corp.が,そして75年に石油と天然ガス資源の開発と安定供給を目ざして国策会社ペトロ・カナダPetro-Canadaが設立された。また,こうした一連のナショナリスティックな政策の最後を飾ったのが,80年10月に発表された〈国家エネルギー計画〉であり,90年までにエネルギー自給を目ざしエネルギー部門のカナダ化を進めることを宣言したものであった。

 しかし,一般に州権の強いカナダで,相対的に開発の遅れた州ほど外資を歓迎する傾向があり,また,歴史的にみて不況期に経済ナショナリズムの動きが後退するという事実は,徹底したカナダ化政策の遂行がいかに困難であったかを物語っている。また,カナダ自身有力な海外投資国であり,しかも外国貿易への依存が高い開放型の経済構造をもつゆえに,性急な外資規制は国益に合致しなかったのである。外資歓迎が再び外資規制に取って代わったのは,1984年にブライアン・マルルーニー党首率いる進歩保守党が政権の座につき,翌85年に従来の外資規制型の外国投資審査法をカナダ投資法Investment Canada Actに改定したことによる。同法は外資の導入を積極的に打ち出している。減速経済の下,世界各国はむしろ雇用の拡大のために厳しい外国企業の争奪戦の段階に入っていたのである。

 加米経済関係の緊密化は,両大戦間期のアメリカ企業の対カナダ直接投資により深まりつつあったが,マッケンジー・キング自由党政権下で1935年に締結された加米互恵条約によっていっそう強化された。第2次世界大戦以後,59年の防衛生産分担協定を通してさらに強化された。そして,65年の加米自動車協定(オートパクト)の締結は,特定産業部門の自由貿易のケースとして後の加米間の包括的な自由貿易実現の先鞭をつけるものであった。80年代に入って,世界市場での競争が激化するにつれて,カナダ国内では,アメリカ合衆国との包括的な自由貿易を行って,巨大なアメリカ市場に自由に参入することによって,カナダ企業の競争力を強化すべきである,との認識が高まってきた。長い交渉の後,89年に加米自由貿易協定が発効した。同協定は,(1)10年間で双方の関税の完全撤廃,(2)輸出入の規制やサービス産業に関する規制などの非関税障壁の除去,(3)投資の自由化,などを内容としている。

 さらに92年に成立したヨーロッパの市場統合に対抗して,アメリカ合衆国ではブッシュ共和党政権下で,中米,さらには南米をも含むアメリカ大陸全域をカバーする米州自由貿易地域の形成が構想された。こうした動きは,94年1月のメキシコを加えた北米自由貿易協定North America Free Trade Agreement(通称NAFTA)の発効によってその一部が実現された。

 一方,これまでもカナダは成長著しいアジアとの経済関係の緊密化に力を注いできた。太平洋アジア地域は,カナダの輸出市場としてアメリカ合衆国に次ぐ規模を誇っており,カナダの経済成長の将来はアジアとの経済取引にかかっているといってよい。もともとカナダと太平洋アジアとの経済的つながりは,当該地域からの膨大な移民によって強化されてきた。とりわけ太平洋に面しているブリティッシュ・コロンビア州にとって,アジアとの貿易はアメリカ合衆国に匹敵する重要性を有している。

環太平洋諸国の中心に位置しアジア太平洋経済協力会議APECの主要メンバーである日本は,カナダの経済的成功を占うきわめて重要な国である。日本は,カナダにとって第2の貿易パートナーであり,カナダ資源の大口顧客であるばかりか,カナダ経済を支える資本の主要供給国でもある。また,カナダを訪れる日本人観光客の数は,1985年のプラザ合意以降の円高傾向により,急速に増加している。日加間を移動するモノ,カネ,ヒトの量は確実に拡大している。

 日加経済関係は,カナダの貿易統計に日本が初めて顔を出す1873年にさかのぼる。当時の日加貿易で重要なパイプ役を演じたのは日系移民であった。主たる取引品目は,日本の緑茶,絹製品,カナダの木材,石炭,水産物であった。こうした比較的限られた商品基盤から出発した日加貿易は,第2次大戦後めざましい発展をとげた。とくに,トルドー政権が1972年に過度のアメリカ依存を脱してECや日本への接近を強めていこうとする〈第三の選択〉を外交政策の一つに据えて以来,カナダは日本をアメリカに次ぐ第2の貿易パートナーとして対日貿易の拡大に努力した。一方,日本は〈環太平洋経済圏構想〉の下に,カナダを重要な資源供給国の一つとみなし,日加協力関係の緊密化に傾注してきたからである。

 日加貿易は,1954年の日加通商協定の締結,56年の在加日本貿易センターの設立,76年の日加経済協力大綱の締結,および78年の日加経済人会議の開催といった一連の政府および民間レベルの交渉や会議を通じて,飛躍的な伸びを示した。日加貿易は1970-80年間に4.4倍,1980-90年間に2.4倍の増加を示した。日加貿易は,対先進国貿易としては珍しく83年までは日本側の入超で推移したが,その後一転して95年まで日本の黒字が続いた。しかし96年には再びカナダ側の黒字となっている。近年は両国の貿易収支は均衡化に向かっているといえる。

 さらに,日加経済関係にとって,カナダの観光資源もまたきわめて重要である。カナダを訪れる日本人旅行者の数は,1985年以降の円高により急増し,年率10%の伸びを示している。95年にはその数66万6800人にのぼっている。その年カナダを訪問した外国人旅行者のうち15.4%を日本人旅行者が占めている。それはアメリカ人とイギリス人に次ぐ第3位の数である。そして,日本人旅行者がその年カナダ国内で支出した額は,じつに7億5000万カナダ・ドルに達し,カナダの対日貿易外収支の黒字に大きく貢献している。
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広大な未開の土地に散在した原住民,そこに入植したヨーロッパ人の形成した国家という点で,カナダはアメリカ合衆国やオーストラリアと共通性をもつ。しかしそれぞれの国がかくも違った歴史を展開し,その結果異なった体制をもつ国家となるにあたっては,いくつもの要因が重なり合って決定的な影響を与えている。カナダの場合,その第1はこの地がフランス革命前の封建色濃いフランスの植民地として出発したことに求められよう。

16世紀のジャック・カルティエらフランス人探検家は,すでにスペイン,ポルトガル,イギリスが接触した南方を避け,北方にアジアへの道を探した。カルティエらはその発見には成功しなかったが,溯行したセント・ローレンス川を〈カナダの川〉と呼び,沿岸をフランス王の領土と宣した。同じ頃のちにカナダの一部を形成するニューファンドランドはイギリス領と宣言され,イギリスの海外植民地の最初となる。

 フランスの北アメリカ植民地に入植が始まったのは1603年であったが,失敗を繰り返した後,〈ニューフランスの父〉サミュエル・ド・シャンプランは08年ケベック要塞を設け,ここが150年余りに及ぶフランスの北アメリカ統治のかなめとなった。フランス人が北アメリカで利益を見いだしたものは,豊富なタラと良質の毛皮であった。その利潤が大きく,また寒冷気候もあずかって,彼らは農業にはあまり関心を示さず,もっぱらインディアンとの交易を中心に活動範囲を広げていった。したがって入植するフランス人は毛皮商人,彼らを守る軍人,そして異教徒インディアンを改宗させようとする宣教師たちが大部分であった。

 ニューフランス経営は当初会社組織で行われたが成功せず,63年フランス国王の直轄地として,フランス国内の地方経営と同じ形式が採られることになる。この結果カトリック教会と荘園制は,17世紀後半のフランスと同様,ニューフランスに根づくことになった。

 一方,ニューフランスの版図が広がるにつれ,南のイギリス植民地との接触・衝突の機会が多くなった。本国同士の争いは直ちに植民地におけるそれに発展し,1713年にはアン女王戦争の結果のユトレヒト条約で,ニューファンドランド,ハドソン湾岸のほか,ノバ・スコシアを中心とするアカディア地方が正式にイギリス領と認められた。英仏植民地戦争の最大にして最後のものが,54年に始まったフレンチ・インディアン戦争である。ヨーロッパにおける七年戦争と呼応したこの北アメリカ大陸の戦闘でも,フランスは敗北を喫し,63年,フランスは東端の小さな二つの島およびミシシッピ川以西を除く北アメリカの全領土をイギリスに譲渡することになった。

イギリス領ケベック植民地に当時住んでいたフランス系の人は6万5000人といわれる。彼らをごく少数のイギリス役人,軍人で統治するに当たり,イギリスは74年ケベック法を制定してフランス民法,フランス語の使用,カトリックの信仰を認めると布告した。隣接するプロテスタントの13植民地(のちのアメリカ合衆国)にとっては脅威であり,ケベックの境界が拡大されたことと相まって,13植民地は革命への胎動を激化させた。翌75年のアメリカ独立革命の勃発は,カナダに二つの大きな転機をもたらした。一つは,後にカナダとなる領域がアメリカ合衆国から切り離されて誕生したことであり,もう一つは,4万人にものぼる王党派(ローヤリスト)のカナダへの移住によってイギリス系人口が激増したことである。とくに後者がカナダ社会に与えた影響は大きかった。一般に歴史上,このように大量のいわば社会の中流以上を占める人々の同時移動は珍しいといわれる。それもフランス人が定住していた地域へイギリス人が赴いたのであるから,軋轢は当然である。91年,ケベックは二分されて,ケベック法を遵守するロワー・カナダと,イギリス式の政治・経済制度を採るアッパー・カナダの二つの植民地が成立した。カナダにとって宿命的な問題,フランス系とイギリス系の対立抗争はここに決定的となった。一方,ノバ・スコシアへ移住した王党派は,ニューブランズウィック植民地を建設した。

 19世紀前半のイギリス領北アメリカ植民地は,経済的発展とそれに伴う住民の政治的意識の成長で特徴づけられるといえよう。アメリカにおいて第2独立戦争とみなされた1812年戦争(第2次英米戦争)の,陸上における主戦場はアッパー・カナダであったが,戦争はアメリカから移住した人びとの反米意識を強化した。同時に彼らはイギリスに対して植民地政治の民主化を要求した。この運動においてはノバ・スコシア,ロワー・カナダ,アッパー・カナダの3植民地がとくに際だっていたが,ノバ・スコシアが平和裡に,最も早く責任政府を実現したのに引き替え,後2者は紆余曲折を経た。

 アッパー・カナダにおける政治の民主化運動はW.L.マッケンジー,ロワー・カナダにおけるそれはL.J.パピノーを指導者として展開された。1820年代から30年代にかけ,2人とも議会を通じて政治改革を進めようとしたが,アッパー・カナダでは英国国教会と結託して政界を牛耳る〈家族盟約〉の,ロワー・カナダでは総督,イギリス官吏と彼らを支える商人が形成する〈城砦閥〉の力が強く,2人は蜂起に訴えて目標を貫徹しようとした。しかしその企図が挫折したことはいかにもカナダ的である。カナダ史では過激な変革は排され,漸進的な改革が目的を達成する。マッケンジー,パピノーの運動はより穏健なR.ボールドウィンL.H.ラ・フォンテーヌらに受け継がれたのであった。

 しかし,蜂起の失敗は両植民地に大きな影響を与えることになった。蜂起の結果の視察にイギリス政府から派遣されたダラム卿は,アッパー,ロワー両カナダの統合によりフランス系カナダ人をイギリス系カナダ人に吸収すること,および植民地に大幅の自治を与えることを勧告し,41年連合カナダ植民地が成立,48年には責任政府の樹立をみた。しかしフランス系カナダ人は同化吸収されるどころか,かえって〈生存〉の意志を強めたかのようであった。イギリス系とフランス系は連合カナダ植民地議会でことごとく対立し,政治は行詰りの状況をみせた。この要因に加えてイギリスにおける自由貿易主義の完成,アメリカの南北戦争などが引金となり,連合カナダ植民地を解体し,より大きな枠組みでイギリス領北アメリカ植民地の統合とイギリスからの独立を求める運動が50年代末から生じてくる。

1867年,自治領カナダを結成したのは,ノバ・スコシア,ニューブランズウィック,そして,連合カナダ植民地が解体して誕生したオンタリオとケベックの4州であったが,そのほかに,イギリス領北アメリカには3植民地とハドソン湾会社が1670年から領有する広大な領域が存在した。これらの植民地がイギリスの支配を脱し,カナダに参加する動きを総称して〈コンフェデレーション〉というが,正確にはコンフェデレーションは1949年のニューファンドランド州の参加をもって終了する。その間にマニトバ州が1870年,ブリティッシュ・コロンビア州が71年,プリンス・エドワード・アイランド州が73年,そしてアルバータとサスカチェワンの両州が1905年にコンフェデレーションを実現している。

 カナダが第1に着手したことは版図の確定と国力の充実であった。〈海から海へ〉またがる国家,というのが建国のモットーとして採用されたが,そのためにはオンタリオ州とブリティッシュ・コロンビア植民地の間のハドソン湾会社領有地を獲得しなくてはならない。その譲渡に関する交渉は問題なく進行していったが,事の成行きを知らされなかったレッド・リバー地域の住人,メティスは自分たちの既得権を守ろうと1869年臨時政府を樹立した。L.リエルを首班として連邦政府と交渉し,メティスの主張が大幅に受け入れられて70年マニトバ州が成立する。主張の中にはフランス語による教育の保障も含まれていたが,このことは90年代に学制問題を引き起こす。国力の充実については,イギリス,アメリカ合衆国との経済的提携が断ち切られたカナダは,保護関税を採用して自国の工業を興し,大陸横断鉄道を敷設して西部と東部を結びつけ,移民を西部へ運ぼうと図った。19世紀末のカナダにおいて,これらの政策が成功を収めたとはいいがたいが,20世紀に入りようやく実を結ぶのである。西部開拓に当たっては1874年北西部騎馬警察(カナダ騎馬警察)を設置して治安と秩序の維持に当たらせた。北西部騎馬警察は,85年リエルが再びかつぎ出されてサスカチェワン地方で反乱を起こした際,その鎮圧に一役買うことになる。

 リエルの2度目の蜂起は最初のそれと性格を異にしていた。15年前と異なりカナダの統治体制は相当整備されており,鎮圧のための軍隊の移動も鉄道敷設により迅速に行われた。蜂起の敗北はいわば半農半猟の社会が文明に屈服させられた観があったが,リエルがフランス系のメティスであったため,彼の処刑はフランス系カナダ人の間に連邦政府に対する反感を巻き起こした。現在に至るまで続く連邦政府へのケベック州の不信は,ここに源を発すると言っても過言ではない。こうしてコンフェデレーション後,一致して国家建設に向かったのもつかのま,カナダではリエル問題,マニトバ学制問題,ボーア戦争参戦問題,と絶えまない英仏抗争が展開されてゆく。

 〈20世紀はカナダの世紀である〉と言ったのは世紀転換期に首相を務めたW.ローリエばかりではないが,ローリエ時代のカナダは日系カナダ人の問題などは生じたものの,安定した繁栄期を迎えた。寒冷・乾燥気候に適した小麦種の改良により,西部は世界の穀倉として注目されることになり,移民が続々と到来した。1907年の日本人街襲撃というバンクーバー騒動も,1年に1万人に近い日本人移民の到来に,以前から神経をとがらせていたブリティッシュ・コロンビア州の白人が報復の機会をとらえたものと言える。国力の充実を背景にローリエは,コンフェデレーションの際イギリスに残されたままであった外交上の自治権をカナダの手に戻すべく,さまざまな機会をとらえて外交上の自主性を主張しようとした。彼の統治の最後において,それは海軍創設問題にみられた。08年ころから,イギリスはドイツ海軍との対抗上,自治領のイギリス海軍への協力を求めたが,ローリエは小規模ながらカナダ独自の海軍を創設することでこれにこたえようとした。しかしこれは,イギリスを支持するイギリス系カナダ人には非協力のあかしとして,イギリスの政策に巻き込まれることを忌避するフランス系カナダ人には迎合的として嫌われ,この奇妙な連合により11年ローリエは退陣に追い込まれた。

14年に勃発した第1次世界大戦はカナダに大きな影響を及ぼした。大英帝国の一員として,イギリスの参戦とともにいわば自動的に参戦を強いられたが,直接の戦場となったヨーロッパと違い,イギリスへの物資・人力補給の地としてめざましい活躍を果たした。イギリスも戦争遂行への協力を仰ぐ以上,自治領の意向を政策形成に反映させざるを得ず,大英帝国におけるカナダの外交上の自治の進展は著しいものがあった。大戦が国内に及ぼした影響の第1は,再び高まったイギリス系・フランス系の軋轢であろう。徴兵制に反対するフランス系カナダ人の激しい抵抗に遭遇したR.L.ボーデン保守党内閣は,自由党との連合内閣を形成してこれを切り抜けたが,以後ケベック州における保守党の支持は著しく低下した。第2としては,女性の地位の向上があげられよう。大戦中の女性の労働市場への参加はめざましく,それを反映して18年,婦人参政権が実現された。第3に,軍需で潤った実業界の陰に犠牲を強いられた農民,労働者の声が,戦中から戦後にかけて強大になっていったことがあげられる。前者はカナダ農業評議会を通じて18年〈新ナショナル・ポリシー〉を発表し,大英帝国内におけるカナダの自立と国際平和機構の遵守,自由貿易などの要求を明らかにし,後者は19年の初夏に発生したウィニペグ・ストライキで最高潮に達する動きをみせた。21年の連邦総選挙で第二党の位置を占めた全国進歩党は,この両者を代表した形で勢力を伸張したが,20年代の自由党はマッケンジー・キングの指導の下に政策の先取りをした形で全国進歩党の地盤を切り崩し,カナダにおける〈改革の時代〉は短命に終わっている。

 21年から48年までの間,中断はあったものの首相を務めたマッケンジー・キングは,自由主義圏における政権維持の記録保持者とされる。この時期のカナダはよかれあしかれ彼の影響下に一時代を画したといえる。キングの統治の特徴は,一言でいえば,議会を通じての巧みな人心の操作にあった。彼の時代にカナダは大恐慌,第2次世界大戦という二つの最悪の場面に直面したが,これまでのカナダ史に特徴的であったイギリス系・フランス系の対立による国論の分裂は免れた。一方1920年代には,コンフェデレーション以来のカナダ国民の願望とキングの対英政策が効を奏し,また国際情勢の変化もあずかって,26年のイギリス帝国会議のバルフォア報告(1931年のウェストミンスター憲章で立法化)で待望の外交上の自主権が獲得された。外交上も主権を得たカナダは早速アメリカ合衆国,フランス,日本に公使館を設立した。

 キングの時代は一方では,現代カナダの特徴である地方主義の色彩が濃厚になった時代としてもとらえられる。大西洋岸の諸州は〈沿海諸州の権利〉を主張し,西部諸州は公有地の返還を求めた。27年に開催された連邦・州会議は,コンフェデレーションで定められた強力な中央政府の下の連邦制度が曲り角に差しかかったことを示すものであり,以後のカナダは州政府の権限が強い連邦制度へと変貌を遂げてゆく。これに輪をかけたのが,大恐慌に具体的な解決策を示し得なかった二大政党への批判として,30年代前半に誕生した新政党である。アルバータで圧倒的強さを誇った〈社会信用党〉,マニトバ,サスカチェワンなど西部で伸張をみせた〈協同連邦党〉,ケベックのみで支持された〈国家連合党〉などは,この時代の地方分権主義の強さを象徴する。

45年,第2次世界大戦終了時のカナダは,人的資源においては第1次大戦を上回る被害を受けていたものの,30年代とは比較にならない経済力を備えた国家として,国際社会で大きな役割を果たそうとしていた。大戦中,連合国の物資補給庫となっていた実力は,カナダ人による資本の蓄積とアメリカからの投資,ヨーロッパからの移民という形での労働力,そして戦争で疲弊した国々が市場を提供したおかげで,50年代に至るまでカナダに未曾有の経済的発展をもたらした。この自信に裏づけられたカナダは,国際連合やイギリス連邦,北大西洋条約機構(NATO)を舞台として,国際的に初めて華々しい活躍をみせた。カナダの外交目標は,中間国家として大国の果たし得ない調停的役割を担うというものであり,その最も顕著な例が,1956年のスエズ危機打開の際にみられた。

 経済的繁栄と国際舞台における活躍など,50年代のカナダは,サン・ローラン自由党政権,ディーフェンベーカー進歩保守党政権の下に,他国がうらやむような発展を遂げていたが,その裏には二つの深刻な事態が進行していた。これ以降80年代に至るカナダ史を左右する二つの問題とは,対米関係とフランス系カナダ人の問題である。まず対米関係については,戦時中の協力で密接化した両国の関係は戦後もしばらくは変更を迫られることもなかった。カナダ人がアメリカの経済力,軍事力に自分たちの生殺与奪の権が握られていることに気づくのは,50年代も後半に入ってからである。ディーフェンベーカー時代のアメリカからの核兵器受け入れの要求,次のピアソン内閣時代に行われたアメリカからの投資の分析(ワトキンス報告)は,いつのまにか進行していた事態の深刻さを明らかにした。

 一方,長らく農業とカトリックの信仰に依存していたケベック州のフランス系カナダ人も,50年代の他地域における急速な工業化,都市化の影響を受け,覚醒の動きをみせてきた。大戦以来ケベックの政権を掌握していた保守反動的な国家連合党を倒そうとする運動は,40年代末から学生,知識人を中心に推進され,60年の自由党政権の誕生は〈静かな革命〉と呼ばれて祝福された。この自由党政権は,第1にケベック州内の旧体制,第2にケベック州内外で政治的・経済的・文化的に実力を行使するイギリス系カナダ人を敵とし,フランス系カナダ人がケベック州の主人になることを目標に,経済の公営化,教育の近代化を実施した。ケベック州内の急激な変化に対応して連邦政府も63年〈二言語・二文化委員会〉を命し,カナダにおけるフランス系をはじめとする少数民族の不満の究明に乗り出した。
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百科事典マイペディア 「カナダ」の意味・わかりやすい解説

カナダ

◎正式名称−カナダCanada。◎面積−998万4670km2。◎人口−3516万人(2013)。◎首都−オタワOttawa(88万人,2011)。◎住民−フランス系22.8%,イギリス系20.8%,ドイツ系3.4%,イタリア系2.8%,中国系2.2%(1991。いずれも単一の民族を祖先に挙げたもの)など。◎宗教−カトリック46%,合同教会17%,英国国教会12%など。◎言語−英語,フランス語(以上公用語)。◎通貨−カナダ・ドルCanadian Dollar。◎元首−英女王エリザベス2世,総督ジョンストンDavid Johnstonが代行。◎首相−ジャスティン・トルドー(2015年11月就任)。◎憲法−1867年のイギリス領北アメリカ法を基本とする1867年―1982年憲法。◎国会−二院制。上院(定員105,任期は75歳まで,政府推薦で総督が任命),下院(定員308,任期5年)。2013年12月時点の下院構成は,保守党161,新民主党95,自由党36など。◎GDP−1兆4001億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万9182ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−2.1%(2001)。◎平均寿命−男79.3歳,女83.6歳(2013)。◎乳児死亡率−5‰(2010)。◎識字率−99%。    *    *北米大陸の北半を占める,イギリス連邦内の独立国。首都オタワ。〔自然・住民〕 国土面積はロシアに次ぎ世界第2位。西部,太平洋岸に沿ってロッキー山脈が走り,その東はグレート・プレーンズの米国からの延長。最高峰はローガン山。ローレンシア楯状地には多くの氷河湖がある。北極海諸島,ハドソン湾岸低地は大部分ツンドラで不毛の地。南東部のセント・ローレンス川流域は,気候も比較的温和で,人口の半数以上が集中。大西洋岸は低い丘陵地。高緯度にあり,国土の3分の1がツンドラ,3分の1がタイガで,残り3分の1が冷温帯に属する。住民の構成では,1980年代ころからアジア系やラテン・アメリカ系の移民が急増したため,民族的多様化が著しい。先住民のインディアンは55万人,イヌイット(エスキモー)は3.6万人。カトリック教徒はフランス系に多く約46%。〔歴史〕 1497年カボットが欧州人として初めて発見。16世紀にフランス人が探検,ニューフランスの名を与え,1608年ケベック要塞を建設。17−18世紀植民地をめぐる英仏の諸戦争の結果,パリ条約(1763年)で英植民地となったが,1774年ケベック法を制定してフランス人の伝統尊重を約束した。1867年英領北アメリカ条令で4州からなる連邦政府が成立,1931年のウェストミンスター憲章で,イギリス連邦内の独立主権国家の地位が法的に確立した。フランス系住民が多数を占めるケベック州では,カナダからの分離・独立の是非を問う住民投票が1980年と1995年に行われ,2度とも否決されたが,1995年には賛成49.4%,反対50.6%と差が1%強に縮まった。しかし,2007年3月のケベック州議会選挙では独立を掲げるケベック党が大幅に議席を減らす結果となった。→ケベック分離独立運動〔政治〕 元首は英国王(現エリザベス2世)。総督が女王の名代としておかれるが,形式的。10州と2準州からなる連邦制をとるが,イヌイットが住民の大半を占めるノースウェスト・テリトリーズの東半分は,1999年から新たな準州ヌナブトNunavutとなった。連邦議会は上院(定員105名,75歳まで,任命制)と下院(定員308名,任期5年,直接普通選挙で選出)からなる。主要政党は自由党,進歩保守党,新民主党であったが,1993年総選挙以降,ケベック連合,改革党という地域政党が第2党,3党に躍進し世界的に注目された。しかし連邦議会ではその後は,保守党,自由党の二大政党が議席の圧倒的多数を占め,2010年の下院総選挙でハーパーの率いる保守党が過半数を超える122議席を確保。2011年5月の下院総選挙が実施され,保守党は,議席数を伸ばし166議席を確保。安定した政権運営により経済対策に焦点をあてた施策を推進しているが,2013年に入り,上院議員による手当不正受給問題等により保守党に対する支持率が漸減している。米国との協調を外交の基調としつつ,経済面では米国以外の主要貿易相手国である,中国・日本・メキシコなどとの経済連携に前向きの姿勢を強めている。2015年の総選挙では自由党が大勝。自由党党首であったジャスティン・トルドーが首相に就任した。内政面では,民族構成の多様化に伴い,従来の英仏を軸とする〈二言語・二文化政策〉から,1980年代末には〈多文化主義政策〉に転換したが,ケベック州だけは独自のフランス語・文化路線をとっている。また1982年の改正憲法では〈先住民権〉の規定を置くなど,先住民についても新たな政策が実施されている。〔経済・産業〕 耕地は陸地面積の8%以下であるが,西部のグレート・プレーンズを中心とし,世界有数の小麦生産国で,中国などに輸出する。酪農,リンゴ栽培も発達。毛皮獣の飼育も多い。森林は全国土の46%で,タイガ,太平洋岸地帯を中心にパルプ,新聞用紙を産する。水産業も盛んで,ニューファンドランド島沖は世界三大漁場の一つ。サケ,タラ,エビ,オヒョウなどの漁獲が多い。鉱産資源は豊富で,ニッケル,亜鉛の生産額は世界でも上位。銅,鉄,金,鉛,ウラン,プラチナなどもある。石油輸入国であるが,アルバータ州に莫大なオイルサンドがあり,大規模な開発が行われている。第2次大戦後,急速な重工業化が行われ,機械,自動車,製紙,製鉄,製油,食品加工などの工業が発達。米国資本の進出が著しい。1994年には北米自由貿易協定(NAFTA)が発効した。2008年の世界金融危機の影響で2009年の経済成長はマイナスとなったが,国内金融市場がいち早く安定化し,ハーパー政権の景気刺激策も奏功して,2010年以降は再びプラス成長に転じた。世界経済が不透明な中,引き続き経済成長と雇用創出,2015年までに均衡財政を達成することに政策の重点をおいている。ただし失業率は7%台と低いとはいえず,2011年以降中期的な雇用拡大と経済成長をめざす経済行動計画が実施されている。
→関連項目カルガリーオリンピック(1988年)バンクーバーオリンピック(2010年)モントリオールオリンピック(1976年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カナダ」の意味・わかりやすい解説

カナダ
Canada

正式名称 カナダ。
面積 998万4670km2(陸水 80万3663km2,五大湖 8万7500km2を含む)。
人口 3814万8000(2021推計)。
首都 オタワ

北アメリカ北部にある国。イギリス連邦を構成する一自治国で,10の自治州と 3准州からなる。アメリカ合衆国のアラスカ州を除く北アメリカ大陸の北半を占め,南はエリー湖中のペレー島の北緯 41°41′から,北はコロンビア岬の北緯 83°6′の間に広がる。面積はロシアに次いで世界第2位であるが,国土の大部分は山地や岩石地,極地で,開発された地域は国土の 3分の1以下。気候はかなり厳しく,1月の平均気温が 0℃以上となるのはバンクーバー付近のみ。耕地や居住地は,南の国境沿いや五大湖沿岸に集中し,中部から北部にかけては広大な針葉樹林帯(→針葉樹林)やツンドラ,氷雪地帯が広がる。地形は,西部太平洋岸のロッキー山脈と東部大西洋岸のアパラチア山脈の両者に挟まれた広大な地域で,高地,平原,低地の 3地域に大別できる。カナダへの植民は,1534年フランス人ジャック・カルティエセントローレンス湾に入り,セントローレンス川沿岸をフランスの植民地ニューフランスとしたのに始まる。しかし,ヨーロッパにおける七年戦争後のパリ条約(1763)により,北アメリカ大陸のフランス植民地がイギリスに割譲され,以後はイギリスの植民地となった。1864年,イギリスの 4植民地が連邦を結成してカナダとなり,1867年イギリス連邦カナダ自治領になった。1931年外交自主権を獲得して完全な独立国となり,1982年新憲法を公布,国権の最高機関を国会とし,イギリス君主は象徴とされた(→立憲君主制)。国民は多くの民族からなるが,イギリス系とフランス系がそれぞれ約 4分の1を占める。フランス系はケベック州を中心に東部の旧フランス植民地に多い。公用語は英語とフランス語。ケベック州では文化の独自性を主張し,分離独立を求める運動が続いている(→ケベック問題)。植民の初期は,タイガでの毛皮獣の捕獲および毛皮の取り引きが主であったが,その後鉱物資源や林産資源の開発と農業開発が進んだ。南部のプレーリー地帯のコムギ栽培と畜産,カナダ楯状地の金,銀,銅,鉛,ニッケル,鉄,ウランなどの鉱業,アルバータ州を中心とする石油,天然ガスの採掘,東部や西部の林業などが盛んで,漁業も重要。五大湖からセントローレンス川沿岸を中心に,食品加工,石油精製,自動車などの工業が発達し,そのほかパルプ,製紙,製鉄,鉄鋼,機械,鉄道車両,ハイテク関連などの工業も盛んである。北大西洋条約機構 NATO原加盟国。国際紛争で中立的な立場が評価され,国際連合のさまざまな平和維持活動に参加している。(→カナダ史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カナダ」の解説

カナダ
Canada

国名はヒューロン語,またはイロクォワ語の「カナタ=村落」に由来する。16世紀から英仏が覇を競い,フランスからは1535年にジャック・カルチエ,1603年にはサミュエル・ドゥ・シャンプランが毛皮植民地ヌーヴェル・フランス(現ケベック州)の基礎を据えた。1713年のユトレヒト条約で,フランスはニューファンドランドとハドソン湾をイギリスに割譲した。ヌーヴェル・フランス植民地も60年に征服され,63年のパリ条約でイギリス領となった。1848年にはイギリス帝国で最初の植民地自治を認められた。アメリカ革命の際,カナダは北アメリカ大陸におけるイギリス帝国の橋頭堡とされ,革命を逃れて移住してきたロイヤリストフランス系カナダ人との共存にもとづく植民地建設が進められた。67年にはアメリカ南北戦争の圧力のもとで,イギリス議会でのイギリス領北アメリカ法により,それまで分離していたイギリス領北アメリカ植民地が統合されて「カナダ自治領」となる。1931年のウェストミンスター憲章で外交自主権を獲得し,カナダ1982年憲法で名実ともに独立した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「カナダ」の解説

カナダ

北アメリカ大陸北部に位置する国。漢字表記は加奈陀。17世紀初めフランス人がケベックに入植,続いてイギリス人が入植して争ったが,1763年パリ条約でイギリス植民地となり,1867年4州を統合する自治領カナダ連邦が成立した。1931年に法的にイギリスと対等になる。日本との関係は明治初年からコクランらメソジスト派宣教師の布教や学校設立が行われたが,中心は移民問題である。ことに1887年(明治20)バンクーバー―横浜間の航路開通後は鉄道・鉱山や林業・漁業の移民労働者が急増して紛擾・暴動も発生。1907年のルミュー協約による移民規制後も排日感情は強かった。第2次大戦中,日系人は敵性外国人として強制拘留された。51年(昭和26)サンフランシスコ講和条約に調印。88年カナダ政府は日系人への戦時補償と謝罪を行った。広大な国土の大半は森林とツンドラの無人地帯。日本にとって資源輸入・製品輸出型の重要貿易相手国となっている。名目上イギリス国王を元首とする立憲君主制にもとづく民主的連邦制。首都オタワ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カナダ」の解説

カナダ
Canada

北アメリカ大陸北部にある,イギリス連邦内の独立国。首都オタワ
1497年イタリア人カボットが探検。17世紀にイギリスとフランスの植民活動が始まり,七年戦争の結果,イギリス領となる。1867年カナダ連邦が成立。1931年以来イギリス連邦の一員となり,第二次世界大戦後は一時アメリカに接近したが,49年ニューファンドランド州が加入して10州となり,現在の領土が形成され,完全に独立国となる。1982年,自主憲法制定。ただし,フランス系住民の多いケベック州は1960年代より分離独立を求めており,95年の住民投票では分離は否決されたものの,問題点を残している。

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デジタル大辞泉プラス 「カナダ」の解説

カナダ

《Canada》イギリス海軍の戦艦。1913年進水、1914年就役の超弩級戦艦。同型艦なし。第一次世界大戦中は、ユトランド沖海戦に参加。1919年、チリ海軍に売却され、アルミランテ・ラトーレと改称。1958年に退役。解体は日本で行なわれた。

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