本庄氏(読み)ほんじょううじ

改訂新版 世界大百科事典 「本庄氏」の意味・わかりやすい解説

本庄氏 (ほんじょううじ)

(1)越後国小泉荘(新潟県村上市,岩船郡)の本庄方を領した武家。もと坂東八平氏の一つ平姓秩父氏。鎌倉幕府創業の功績によって越後の城氏の旧領小泉荘に地頭職を与えられて移住した。小泉荘内各地に一族が分派したが,鎌倉時代に加納方を領した色部氏がもっとも早く自立した。室町時代には鮎川氏,小河氏などが独立し,一時本庄宗家は小河氏に家督を奪われた。本庄氏の家伝文書は現存せず,16世紀の房長,繁長の2代のほか,戦国以前の家系は明らかでない。本庄繁長のとき上杉氏に従って越後を去り,江戸時代を通じて米沢藩士。明治以後北海道に移住した。
執筆者:(2)近世大名本庄宗資(むねすけ)は将軍徳川綱吉の生母桂昌院の弟で,1688年(元禄1)下野国内1万石の大名に取り立てられ,翌年2万石に加増。ついで常陸笠間(4万石,のち5万石)に移され,その子資俊の代より松平の家号をゆるされた。のち遠州浜松(7万石),三河吉田などを経て,1758年(宝暦8)丹後宮津に転封。以後幕末に至る(宮津藩)。当主はおおむね伯耆守を称する。資承(すけつぐ)は寺社奉行,宗発(むねあきら),宗秀は老中にまで昇進。また一族の道章(みちあきら)も綱吉側近から取り立てられ,1705年(宝永2)美濃国内で1万石を与えられた。はじめ岩滝に陣屋をおくが,のち高富に移し,以後幕末に至る。両家とも維新後は子爵。1705-11年に越後高森2万石を領有した本庄宗長宗胡(むねひさ)も資俊の子。なお〈本荘〉とも記す。
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世界大百科事典(旧版)内の本庄氏の言及

【宮津藩】より

…翌年3割に及ぶ延高の9万9000石で武蔵国岩槻より阿部正邦が入封,97年(元禄10)奥平昌成9万石,1717年(享保2)青山幸秀4万8000石と藩主の交替が続き,58年(宝暦8)遠江浜松より松平(本庄)資昌が7万石で入封した。本庄氏は家祖宗資が徳川綱吉の生母桂昌院の弟であったことから松平の姓を許され,7代宗武のとき明治維新で廃藩となるまで,それぞれ寺社奉行,老中などの要職に就いた。藩領は丹後6万石と近江1万石で,藩校は礼譲館があった。…

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