宮津藩(読み)みやづはん

改訂新版 世界大百科事典 「宮津藩」の意味・わかりやすい解説

宮津藩 (みやづはん)

丹後国京都府)与謝郡宮津に藩庁を置いた譜代中藩。1622年(元和8)京極高知の遺領12万3200石は宮津,田辺,峰山に分領され,長男高広が7万8200石を領して宮津に築城した。その子高国のとき悪政を理由に除封され,69年(寛文9)永井尚征(なおゆき)が山城国淀より7万3600石で入封。これより譜代藩となり,町屋分の地子米を一部徴収した。80年(延宝8)尚長が鳥羽藩主内藤忠勝に殺害されて改易となる。翌年3割に及ぶ延高の9万9000石で武蔵国岩槻より阿部正邦が入封,97年(元禄10)奥平昌成9万石,1717年(享保2)青山幸秀4万8000石と藩主の交替が続き,58年(宝暦8)遠江浜松より松平本庄)資昌が7万石で入封した。本庄氏は家祖宗資が徳川綱吉の生母桂昌院の弟であったことから松平の姓を許され,7代宗武のとき明治維新で廃藩となるまで,それぞれ寺社奉行老中などの要職に就いた。藩領は丹後6万石と近江1万石で,藩校は礼譲館があった。当藩は幕政に関与したためか財政に乏しく,1681年の大飢饉には大庄屋らが蔵米の所払と,年貢銀納について陳情,訴願している。続いて1714年(正徳4)には藩政改革藩吏自粛を求める訴願要求があった。80年(安永9)海年貢の減免と加悦谷(かやだに)の藩政改善の要求が行われ,1822年(文政5)には万人講(1人1日3文のちに2文)の人頭税と1万5000俵に及ぶ追先納代銀に対する不満が爆発した。71年(明治4)廃藩にともない宮津県となり,豊岡県を経て76年京都府に所属した。
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藩名・旧国名がわかる事典 「宮津藩」の解説

みやづはん【宮津藩】

江戸時代丹後(たんご)国与謝郡宮津(現、京都府宮津市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は礼譲館(のち文武館)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後に細川忠興(ただおき)が九州へ移され、代わって信濃(しなの)国飯田城から京極高知(きょうごくたかとも)が12万3000石で入り、丹後1国を領した。1622年(元和(げんな)8)の高知没後に所領は三分され、次男高三(たかみつ)に田辺藩3万5000石、養子高通(たかみち)に峰山藩1万石、嫡男(ちゃくなん)高広(たかひろ)には宮津藩7万8200石が分知された。高広は宮津城を大規模に改修。しかし、その子高国(たかくに)は悪政を理由に66年(寛文(かんぶん)6)改易(かいえき)された。以後、永井氏2代、阿部氏1代、奥平(おくだいら)氏1代、青山氏2代と譜代が頻繁に交替した。1758年(宝暦8)に松平(本庄(ほんじょう))資昌(すけまさ)が7万石で入って以後は定着、明治維新まで松平氏7代が続いた。松平氏の歴代藩主の多くは、寺社奉行老中など幕府要職についている。1871年(明治4)の廃藩置県で宮津県となり、その後、豊岡(とよおか)県を経て76年京都府に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮津藩」の意味・わかりやすい解説

宮津藩
みやづはん

丹後(たんご)国宮津(京都府宮津市)周辺を領有した藩。1601年(慶長6)信濃(しなの)(長野県)飯田(いいだ)城主京極高知(きょうごくたかとも)が丹後12万3200石に転封となり、細川氏の旧城田辺に入った。1622年(元和8)高知の没後その遺命により、所領は三分され、次男高三(たかみつ)に田辺3万5000石、養子高通(たかみち)に峰山(みねやま)1万石、長男高広には宮津7万8200石を分知した。高広は宮津に築城し、1625年(寛永2)ここに移ったが、その子高国は親子不和、治政の非をとがめられて66年(寛文6)除封された。そのあと藩主の交代激しく、1669年永井尚征(なおゆき)、81年(天和1)阿部正邦(まさくに)、97年(元禄10)奥平昌成(まさしげ)、1717年(享保2)青山幸秀(よしひで)、58年(宝暦8)本庄(ほんじょう)(松平)資昌(すけまさ)が入封。その本庄氏7代宗武で廃藩置県となった。本庄氏のうち幕府の要職についたのは、3代資承(すけつぐ)が寺社奉行(ぶぎょう)、大坂城代、京都所司代、老中、宗発(むねあきら)は寺社奉行、京都所司代、老中、宗秀は寺社奉行、京都所司代、老中を務め、宗発は1818年(文政1)藩校文武館(のち礼譲館)を開いた。1871年(明治4)廃藩置県となり、宮津県、豊岡(とよおか)県を経て京都府に編入。

[井上正一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮津藩」の意味・わかりやすい解説

宮津藩
みやづはん

江戸時代,丹後国 (京都府) 宮津地方を領有した藩。長岡 (細川) 忠興 17万石に始り,関ヶ原の戦い後,京極氏 12万 3200石,永井氏7万 3600石,阿部氏9万 9000石,奥平氏9万石,青山氏4万 8000石を経て,宝暦8 (1758) 年以降松平 (本庄) 氏7万石で廃藩置県にいたった。松平氏は譜代,江戸城雁間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「宮津藩」の解説

宮津藩

丹後国、宮津(現:京都府宮津市)周辺を領有した藩。関ヶ原の戦いの後、九州に移された細川忠興に代わり、信濃国から12万3000石で京極高知(たかとも)が入封、丹後国を領有した。その死後3人の息子に分知された領地のうち、長男高広に与えられたのが宮津の7万8200石。以後の藩主に、永井氏、奥平氏、松平(本庄)氏など。

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百科事典マイペディア 「宮津藩」の意味・わかりやすい解説

宮津藩【みやづはん】

宮津

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世界大百科事典(旧版)内の宮津藩の言及

【丹後国】より

…22年(元和8)高知の死後,丹後は宮津(7万8175石,長子高広),田辺(3万5000石,次子高三),峰山(1万石,養子高通)と3藩に分けられた。年貢高については,宮津藩は延宝年間(1673‐81)に平均3割高の延高をしたが,田辺・峰山藩は近世を通じて大きな石高の変動はなかった。宮津藩領は京極氏以降,天領―永井氏―天領―阿部氏―奥平氏―青山氏と支配が変遷したが,1759年(宝暦9)遠江の浜松より本庄氏が入部し,以来7代相ついで廃藩となった。…

※「宮津藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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