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桂昌院 けいしょういん

美術人名辞典の解説

桂昌院

徳川三代将軍家光側室。五代綱吉の母。京都生。名を宗子光子、側室となってからは秋野お玉の方。家光の死に際し落飾して桂昌院と称した。幕府祈願所護国寺建立や生類憐みの令発布に力を尽くした。宝永2年(1705)歿、79才。

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デジタル大辞泉の解説

けいしょう‐いん〔ケイシヤウヰン〕【桂昌院】

[1627~1705]徳川5代将軍綱吉の母。京都の人。名は宗子。お玉の方。3代将軍家光の側室となり、家光の死後大奥に勢力をふるった。仏教に帰依し、綱吉に生類憐みの令を出させたといわれる。護国寺建立

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

桂昌院 けいしょういん

1627-1705 江戸時代前期,徳川綱吉の生母。
寛永4年生まれ。京都の八百屋仁左衛門の次女。二条家の家司(けいし)本庄宗正養女として,徳川家光の側室となる。寵愛(ちょうあい)されて綱吉を生み,家光没後に桂昌院と称した。仏教信仰があつく,綱吉に生類憐(しょうるいあわれ)みの令をださせたといわれる。宝永2年6月22日死去。79歳。名は光子,宗子。通称はお玉の方,秋野御方。

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朝日日本歴史人物事典の解説

桂昌院

没年:宝永2.6.22(1705.8.11)
生年:寛永4(1627)
江戸前期,3代将軍家光の側室,5代将軍綱吉の生母。通称お玉。実父は京都堀川通の八百屋仁左衛門,継父は二条家の家司本庄太郎兵衛宗利。綱吉が将軍に就任すると権勢をふるい,寺社の建立や生類憐みの令など綱吉の政治に大きな影響を与えた。<参考文献>『柳営婦女伝系』11巻(『徳川諸家系譜』1巻),斎木一馬「徳川将軍生母並びに妻妾考」(日本歴史学会編『歴史と人物』)

(畑尚子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

けいしょういん【桂昌院】

1627‐1705(寛永4‐宝永2)
3代将軍徳川家光の側室,5代将軍綱吉の生母。関白二条光平家司本庄宗利の養女。名は宗子。秋野,お玉の方と称す。家光側室六条有純の女お梅の方の縁で江戸へ下り,家光の寵をうけて綱吉を生む。1680年(延宝8)綱吉が将軍となって後,江戸城三丸に住み,三丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬をうけ,1702年(元禄15)従一位に昇り,また弟本庄宗資をはじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。深く仏教に帰依し,僧亮賢隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。

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大辞林 第三版の解説

けいしょういん【桂昌院】

1627~1705) 徳川五代将軍綱吉の生母。徳川家光の側室。二条家の臣本庄宗利の養女。綱吉の将軍時代、大奥で力をふるい政治にも介入。仏教をあつく信仰し、護国寺・護持院を建立。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

桂昌院
けいしょういん

[生]寛永1(1624).京都
[没]宝永2(1705).6.22. 江戸
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母。名は光子 (のち吉子) 。京都の八百屋仁右衛門の次女として生れ,二条家の家臣,丹後の宮津藩主本庄宗利の養女となった。のち3代将軍家光夫人 (鷹司信房の娘) に従って江戸城大奥に入り,家光の側室となった。正保3 (1646) 年綱吉を産み,阿玉 (おたま) の方といわれた。家光の死後,落飾して桂昌院と称し,仏教に帰依し,僧亮賢,隆光を尊信して,江戸に護国寺護持院 (千代田区神田錦町) を建立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

桂昌院
けいしょういん
(1627―1705)

徳川3代将軍家光(いえみつ)の側室、5代綱吉(つなよし)の生母。京の八百屋仁右衛門(にえもん)の次女、関白二条光平の家司(けいし)本庄宗利(むねとし)の養女宗子。秋野、お玉の方と称す。家光の側室六条有純の女(むすめ)お梅の方の縁で江戸へ下り、家光の寵(ちょう)を受け、1646年(正保3)徳松(とくまつ)(綱吉)を生む。80年(延宝8)綱吉が将軍となると江戸城三の丸に住み、三の丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬を受け、1702年(元禄15)には従(じゅ)一位を授けられた。また弟宗資(むねすけ)(笠間(かさま)藩5万石)をはじめ、その一族は幕臣として栄進する者も多かった。彼女は深く仏教に帰依(きえ)し、僧亮賢(りょうけん)、隆光(りゅうこう)らを厚く信任し、それが生類憐(しょうるいあわれ)みの令を極端に助長するなどの弊害の因となったといわれている。[辻 達也]

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世界大百科事典内の桂昌院の言及

【本庄宗資】より

…江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の弟。1656年(明暦2)綱吉に仕え,80年(延宝8)幕臣となり800俵を給せられる。…

【隆光】より

…91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。1707年(宝永4)駿河台成満院に退き,09年綱吉死後大和超昇寺に隠居した。…

※「桂昌院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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