デジタル大辞泉
「桂昌院」の意味・読み・例文・類語
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桂昌院
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母。今宮神社の氏子の地域にあたる京都・西陣の八百屋に生まれたともいわれる。江戸城の大奥に入り、3代将軍家光の側室となった。今宮神社の復興に手を尽くしたほか、護国寺(東京)の建立を希望するなど神仏への信仰があつかったという。綱吉は犬や鳥などの保護を定めた「生類憐みの令」を出し、「犬公方」として知られる。
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けいしょう‐いんケイシャウヰン【桂昌院】
- 徳川三代将軍家光の側室。名は宗子。於玉方(おたまのかた)という。京都の人。二条家の家臣本庄宗利の養女となり、江戸大奥に入って家光に愛され、五代将軍綱吉を生む。神仏に帰依し、護国寺、護持院を建立。寛永四~宝永二年(一六二七‐一七〇五)
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桂昌院
けいしよういん
四九世承先道欽塔所。道欽は至徳二年(一三八五)没。永享二年(一四三〇)頃の成立と思われる法珠院敷地図(鎌倉市史史料編三)に「桂昌院築地也」とみえる。永禄九年(一五六六)六月晦日に敷地八〇〇文が安堵されている(「大道寺資親証文写」県史三)。元亀三年(一五七二)三月二一日の北条氏照判物写(同書)によると、続燈庵の管理下にあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
桂昌院 (けいしょういん)
生没年:1627-1705(寛永4-宝永2)
3代将軍徳川家光の側室,5代将軍綱吉の生母。関白二条光平家司本庄宗利の養女。名は宗子。秋野,お玉の方と称す。家光側室六条有純の女お梅の方の縁で江戸へ下り,家光の寵をうけて綱吉を生む。1680年(延宝8)綱吉が将軍となって後,江戸城三丸に住み,三丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬をうけ,1702年(元禄15)従一位に昇り,また弟本庄宗資をはじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。
執筆者:辻 達也
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桂昌院
けいしょういん
(1627―1705)
徳川3代将軍家光(いえみつ)の側室、5代綱吉(つなよし)の生母。京の八百屋仁右衛門(にえもん)の次女、関白二条光平の家司(けいし)本庄宗利(むねとし)の養女宗子。秋野、お玉の方と称す。家光の側室六条有純の女(むすめ)お梅の方の縁で江戸へ下り、家光の寵(ちょう)を受け、1646年(正保3)徳松(とくまつ)(綱吉)を生む。80年(延宝8)綱吉が将軍となると江戸城三の丸に住み、三の丸殿と称された。綱吉の厚い孝敬を受け、1702年(元禄15)には従(じゅ)一位を授けられた。また弟宗資(むねすけ)(笠間(かさま)藩5万石)をはじめ、その一族は幕臣として栄進する者も多かった。彼女は深く仏教に帰依(きえ)し、僧亮賢(りょうけん)、隆光(りゅうこう)らを厚く信任し、それが生類憐(しょうるいあわれ)みの令を極端に助長するなどの弊害の因となったといわれている。
[辻 達也]
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桂昌院
けいしょういん
[生]寛永1(1624).京都
[没]宝永2(1705).6.22. 江戸
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母。名は光子 (のち吉子) 。京都の八百屋仁右衛門の次女として生れ,二条家の家臣,丹後の宮津藩主本庄宗利の養女となった。のち3代将軍家光夫人 (鷹司信房の娘) に従って江戸城大奥に入り,家光の側室となった。正保3 (1646) 年綱吉を産み,阿玉 (おたま) の方といわれた。家光の死後,落飾して桂昌院と称し,仏教に帰依し,僧亮賢,隆光を尊信して,江戸に護国寺,護持院 (千代田区神田錦町) を建立した。
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桂昌院
けいしょういん
1627~1705.6.22
3代将軍徳川家光の側室。5代将軍綱吉の生母。二条家家司本庄宗利の養女。実父は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門。諱は宗子。秋野・お玉の方と称す。家光の側室お万の方の縁故で大奥へ出仕,1646年(正保3)綱吉を生む。51年(慶安4)家光没後落飾して桂昌院と称した。綱吉の将軍就任にともない江戸城三の丸に入る。1702年(元禄15)従一位。仏教に帰依して僧亮賢(りょうけん)・隆光(りゅうこう)を尊崇,江戸に護国寺を建立。幕政への影響力も多大であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
桂昌院
没年:宝永2.6.22(1705.8.11)
生年:寛永4(1627)
江戸前期,3代将軍家光の側室,5代将軍綱吉の生母。通称お玉。実父は京都堀川通の八百屋仁左衛門,継父は二条家の家司本庄太郎兵衛宗利。綱吉が将軍に就任すると権勢をふるい,寺社の建立や生類憐みの令など綱吉の政治に大きな影響を与えた。<参考文献>『柳営婦女伝系』11巻(『徳川諸家系譜』1巻),斎木一馬「徳川将軍生母並びに妻妾考」(日本歴史学会編『歴史と人物』)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
桂昌院 けいしょういん
1627-1705 江戸時代前期,徳川綱吉の生母。
寛永4年生まれ。京都の八百屋仁左衛門の次女。二条家の家司(けいし)本庄宗正の養女として,徳川家光の側室となる。寵愛(ちょうあい)されて綱吉を生み,家光没後に桂昌院と称した。仏教信仰があつく,綱吉に生類憐(しょうるいあわれ)みの令をださせたといわれる。宝永2年6月22日死去。79歳。名は光子,宗子。通称はお玉の方,秋野御方。
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桂昌院
けいしょういん
1627〜1705
江戸前期,5代将軍徳川綱吉の生母
京都の八百屋の娘。春日局 (かすがのつぼね) に見いだされ,将軍家光の妾となり,阿玉の方といわれた。家光の死後出家し,桂昌院と称した。綱吉の将軍就任(1680)後大奥の実権を握り,僧隆光らを信じ,仏寺造営,生類憐みの令の発令にも関与した。
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世界大百科事典(旧版)内の桂昌院の言及
【本庄宗資】より
…江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母[桂昌院]の弟。1656年(明暦2)綱吉に仕え,80年(延宝8)幕臣となり800俵を給せられる。…
【隆光】より
…91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。1707年(宝永4)駿河台成満院に退き,09年綱吉死後大和超昇寺に隠居した。…
※「桂昌院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」