日本大百科全書(ニッポニカ) 「本庄繁長」の意味・わかりやすい解説
本庄繁長
ほんじょうしげなが
(1539―1613)
戦国期から江戸初期の武将。弥次郎。越前守。越後国岩船郡小泉荘本庄(現、新潟県村上市)の領主本庄房長の長子。叔父小河長資に奪われた本庄城(村上城)を1551年(天文20)回復し本庄の領主となる。1563年(永禄6)に上杉謙信に属し関東出陣に参加し軍功をあげたが、1568年には武田信玄と結んだため謙信の攻撃を受け対立した。謙信死後の御館の乱(おたてのらん)では、上杉景勝(かげかつ)に味方し景勝の下でも下越(かえつ)随一の勢力を保持した。庄内地方に進出を図る最上義光(もがみよしあき)と対立したが、1589年(天正17)豊臣秀吉の裁定で繁長は庄内支配を公認された。しかし翌年秀吉は景勝に庄内仕置を命じた。1591年出羽仙北一揆(でわせんぼくいっき)が起こると、繁長は一揆画策を疑われて改易、大和に蟄居(ちっきょ)した。1592年(文禄元)の朝鮮陣に許されて参陣し再び景勝に仕えた。1598年(慶長3)秀吉により景勝が会津に転封(てんぽう)となると、これに従い陸奥(むつ)田村郡守山城代となり1万石を与えられた。関ヶ原の前哨戦である会津口の戦いでは、信夫郡(しのぶぐん)福島城主として徳川方の伊達氏を苦しめたが、戦後景勝が米沢に転封されると繁長の所領も3分の1となった。慶長18年福島城で没。74歳。本庄家に伝来した古文書等は北海道立公文書館が所蔵する。
[木越隆三]
『渡辺三省著『本庄氏と色部氏』(1987・村上郷土研究グループ)』▽『『村上市史 通史編1』(1999)』