長島城(読み)ながしまじょう

日本の城がわかる事典 「長島城」の解説

ながしまじょう【長島城】

三重県桑名市にあった城郭木曽三川木曽川・長良川・揖斐川)に挟まれた輪中(わじゅう)の中に築かれた城で、安土桃山時代には長島一向一揆の拠点となり、江戸時代には長島藩の藩庁が置かれた。鎌倉時代の1245年(寛元3)、藤原道家が築いた城館が長島城の起源といわれている。1482年(文明14)、北伊勢四十八家の一人の伊藤重晴が城を再建し居城としていたが、1570年(元亀1)に一向宗寺院の願証寺の住職証意(蓮淳の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。一向宗門徒は織田信長と敵対したが、長島一向一揆は信長留守を突いて尾張に侵入し、信長の弟信興を敗死させた。信長は長島一向一揆に手を焼いたが、1574年(天正2)に行われた3度目の征伐で長島城を落城させ、北勢(伊勢国北部)を与えられた信長の部将滝川一益の居城となった。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で長島藩に封じられ、長島城を改修して藩庁とした。1621年(元和7)、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となったが、1649年(慶安2)に松平康尚(久松松平家)が入封して長島藩が復活し、1702年(元禄15)には増山(ましやま)正弥(まさみつ)(4代将軍徳川家綱の生母の弟増山正利の子)が2万石で入封して8代続き、明治維新に至った。この間、城の拡張や整備が行われたが天守が築かれることはなかった。長島城の跡地は現在、長島中部小学校および長島中学校の敷地になっている。城の遺構はほとんど失われてしまったが、城跡の東側に石垣・堀の一部が残っているほか、同市長島町の蓮生寺に大手門が、同じく長島町の深行寺に奥書院が移築されて現存する。長島中部小学校の敷地内にある同市指定天然記念物の樹齢三百数十年の大松(クロマツ)は、長島城の本丸の西南隅にあったものである。JR関西本線長島駅・近鉄名古屋線近鉄長島駅から徒歩約10分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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