長崎高重(読み)ながさき・たかしげ

朝日日本歴史人物事典 「長崎高重」の解説

長崎高重

没年正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:生年不詳
鎌倉後期の得宗被官。二郎と称す。父は高貞。鎌倉幕府滅亡の折は,鎌倉防御のため桜田貞国を大将とする軍勢のもとに入間川方面に派遣されたのち,得宗北条高時に自害を進言し東勝寺で自害した。自害場所については,「系図纂要」関系図は東慶寺,正宗寺本北条系図には番場異説を記す。「太平記」には,最後の出陣に当たり,崇寿寺の僧・南山士雲に「勇士の条件は何か」と聞き,士雲に「矢や剣が前からきても進んでいくのがそうだ」と答えられ納得して敵陣に向かった話が記されている。<参考文献>高梨みどり「得宗被官長崎氏の専権」(『歴史教育』83号)

(福島金治)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長崎高重」の解説

長崎高重 ながさき-たかしげ

?-1333 鎌倉時代の武将
長崎高資(たかすけ)(一説長崎高貞)の子。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年新田義貞(よしさだ)が討幕軍をおこしたとき,武蔵(むさし)小手指(こてさし),分倍河原(ぶばいがわら)などで幕府軍を指揮して防戦にあたるが敗北。同年5月22日北条高時ら北条一門とともに鎌倉東勝寺で自害した。通称次郎(二郎)。

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